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牛田 成樹



35
名前 うしだ しげき
生年月日 1981年12月6日
経歴 徳島商-明治大学−横浜(03年D4巡目)
入団年 03年ドラフト4巡目
在籍年 04年−13年
背番号 04年−13年[35]
投打 右投げ右打ち
守備 投手
甲子園
徳島商高3年の夏では県大会決勝で無四球、10奪三振の完封勝利を記録。甲子園では初戦の北海戦で13奪三振を奪い、8安打、4四球ながらも1失点に抑えて完投勝利。牛田は「三振の数は意識せず低めに集めることだけ考えましたが、2ストライクになったら狙いました」

職務質問
明大では一場(楽天)や岡本(西武)といったライバル達に勝つために、毎晩寮を抜け出て坂道でダッシュするのを日課にしていた。だがその坂道が女子高に面していたため、たびたび職務質問を受けることになった。03年のドラフト会議で横浜から4巡目指名を受けて入団した。

初登板
04年7月28日ヤクルト戦、3点をリードされた8回にプロ初登板、先頭の真中に四球を与えるなどで一死満塁のピンチを迎え、古田に押し出し死球を与えたところでマウンドを降りた。牛田は「何が何だか分からなかった。最初の登板はうまくいきたかったのですが・・」05年はシーレックスのストッパーとして活躍し、奪三振率10.65という脅威の数字をたたき出した。

二軍で1安打完封
06年5月9日、イースタンリーグのインボイス戦。先発予定だった那須野が一軍に昇格したため、急遽牛田がプロ初先発をすることになった。牛田は初回から145キロのストレートにカーブ、フォークをおりまぜてインボイス打線に付け入る隙を与えない。なんと7回が終わってノーヒットノーランの怪投を見せた。8回も二死までこぎつけたが、水田 圭介にカウント2−1から左中間にツーベースを打たれて大記録を逃した。だが結局打たれたのはこの1安打だけで初先発を初完封で飾った。

初勝利
06年6月6日に一軍昇格を果たすと、同日の楽天戦に登板して2回を無失点に抑えた。6月9日オリックス戦でも2回を4奪三振で無失点に抑えて勝利に貢献。6月14日ロッテ戦でも3回を投げて5奪三振で無失点と好投を続けた。これが認められて7月2日ヤクルト戦で初先発、初回に2点を失ったが、その後は立ち直って8回を投げ抜き、惜しくも敗戦投手になったが6安打、9奪三振で2失点という好投を見せた。2試合目の先発となった7月11日巨人戦では4回に李にソロ本塁打こそ打たれたが、6回を投げて被安打わずか”2”で、1失点に抑えると、3回表には追加点のきっかけとなる初ヒットを放つなど投打に活躍してプロ初勝利を記録した。

阿波踊り
07年は4月29日の中日戦でリリーフのマウンドに立ち、2回をパーフェクトに抑えて勝利投手になった。村田と共に上がったお立ち台では特技の阿波踊りを披露した。だが5月7日に急性大腸炎で入院してしまう。退院後も激減した体重が回復しないなど、本来の体調を取り戻せず、ほとんどマウンドに上がる事も出来なかった。その後も翌08年は右足足首の骨折、09年はインフルエンザと相次ぐ故障に悩まされて満足な結果を残せなかった。

中継ぎエース
10年はウエイト・トレーニングで球速が上がった事もあって開幕から中継ぎエースとして起用され、9試合連続無失点という最高のスタートを切った。その後も好調をキープして6月15日終了時点で31試合に登板して防御率1.41という素晴らしい成績を残していたが、同15日のソフトバンク戦で雨の中でのピッチングで右足を滑らせた際に右肩を痛めて登録抹消。9月中旬に復帰すると再び好投を続けて、41試合に登板して防御率1.21という好成績を残した。

夏場に失速
11年は風邪や腰痛で出遅れたが5月18日に一軍に昇格して同日の西武戦で中島、中村、フェルナンデスから三者連続三振を記録。そこから6試合連続でマウンドに上がったが全て無失点に抑えると、6月には11試合に登板して12.0イニングで17奪三振を奪って月間MVP候補にも名前があがった。7月にも12試合に登板するなどセットアッパーとして活躍したが、8月に入ると6日の中日戦で5失点を喫するなど登板過多の影響もあってか状態を崩して17日に登録抹消となってしまった。10月1日に復帰すると9試合に登板して自責1に抑えた。

引退
12年は3月にインフルエンザに感染して出遅れると、イースタン・リーグで好成績を残して6月16日に一軍昇格。中畑監督から「遅かったな」と声をかけられると「渋滞していまして」と切り返したが、本来のピッチングは見せれずわずか5試合で二軍にUターンとなってしまった。二軍では46試合に登板して防御率2.22という好成績を残した。「絶対にグチを言わない、妥協しない」と誓って臨んだ13年シーズンだったが一軍登板は果たせず同年限りで戦力外通告を受けた。牛田は「1年間決めたことを実践し、やりきった思いが強かった」と引退を決意した。


初記録
初登板 04年7月28日ヤクルト戦
初勝利 06年7月11日巨人戦
初奪三振 04年10月4日巨人戦:阿部から
初完投
初セーブ


  投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
04 横浜 2 0 0 0 0 0 1.1 2 0 3 1 2 0 0 1 1 6.75
05 横浜 2 0 0 0 0 0 1.1 2 0 0 0 1 0 0 0 0 0.00
06 横浜 28 0 0 3 3 0 84.2 62 16 16 1 86 3 0 28 28 2.98
07 横浜 9 0 0 2 0 0 10.1 11 1 3 0 10 0 0 3 3 2.61
08 横浜 23 0 0 0 2 0 24.0 18 6 13 0 28 1 0 16 14 5.25
09 横浜 4 0 0 0 0 0 6.0 9 1 2 2 10 1 0 8 7 10.50
10 横浜 41 0 0 2 1 0 52.0 28 4 28 1 69 3 0 9 7 1.21
11 横浜 45 0 0 2 1 0 46.1 37 7 16 0 61 1 0 21 19 3.69
12 横浜 5 0 0 0 0 0 7.0 10 1 5 0 10 0 0 5 5 6.43
通算 9年 159 0 0 9 7 0 233.0 179 36 86 5 277 9 0 91 84 3.24


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
04 横浜 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
05 横浜 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
06 横浜 28 15 1 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 5 0 2 .200
07 横浜 9 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
08 横浜 23 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 .000
09 横浜 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
10 横浜 41 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 1 1 .000
11 横浜 45 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 .000
12 横浜 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 9年 159 19 1 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 8 1 5 .158


  二軍投球成績
チーム 登板 完投 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四死 三振 失点 自責 防御率
04 湘南 25 0 0 2 2 38.1 19 5 12 46 7 7 1.64
05 湘南 35 0 4 2 7 47.1 34 6 28 56 15 13 2.47
06 湘南 16 1 2 1 2 28.0 11 0 12 34 6 6 1.93
07 湘南 10 0 0 0 3 12.1 3 0 1 17 1 1 0.73
08 湘南 8 0 2 1 0 9.2 5 1 3 16 3 3 2.79
09 湘南 25 0 3 1 3 37.0 22 3 17 47 8 7 1.70
10 湘南 9 0 0 1 2 9.0 6 0 5 7 3 3 3.00
11 横浜 19 0 1 0 9 20.0 12 1 11 26 6 6 2.70
12 横浜 46 0 0 2 14 48.2 31 3 19 53 12 12 2.22
13 横浜 21 0 1 2 1 19.1 17 0 7 16 8 5 2.33
通算 10年 214 0 13 12 43 269.2 160 19 115 318 69 63 2.10