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勝又 温史



028
名前 かつまた あつし
生年月日 2000年5月22日
経歴 日本大学鶴ヶ丘高−横浜(18年D4位)
入団年 18年ドラフト4位
在籍年 19年−
背番号 19年−21年[28]:22年−[028]
投打 右投げ左打ち
守備 投手
8連続
幼い頃はサッカーをやっていたが友達に誘われて小3から野球を始めた。狛江ロッキーズでは主にファーストとキャッチーでプレーし、小6の時にはピッチャーも務めたがストライクが入らず、泣きながら投げ続けて8連続四球を記録した。中学時代は外野とキャッチャーでプレーしたが、心の傷が癒えた3年からピッチャーに転向、早くも136キロを投じるなど頭角を現して日大鶴ケ丘へ進学した。

背番号
日大鶴ケ丘では1年夏からベンチ入り、1年秋には142キロ、2年夏には147キロを計測し、打者としても県大会で11打数5安打を記録した。プロ入りを現実的な目標ととらえて日々の生活からプロに進むために必要かという意識を持って過ごした。2年秋からエースとなったが制球が定まらず一時はサイドスローにも挑戦するなど苦しみ、3年春には背番号は10となったが、投球フォームやボールの握りを修正して150キロまで球速を上げて3年夏は背番号1を取り戻した。

熱中症
3年夏には県大会3回戦で熱中症となり1.2回で5失点降板となった。医者からは「安静に」との診断を受けたが次戦以降も外野と投手として出場を続けて県大会決勝進出の原動力となった。だが日大三高との日大対決となった決勝では3対3で迎えた9回裏にサヨナラ本塁打を打たれて甲子園出場を逃し、猛暑の中の154球の熱投の代償として試合後に熱中症で全身に痛みが走り、グラウンド内に救急車が入り病院へ搬送された。高校通算30本塁打。ドラフト会議で横浜から4位指名を受けて入団。

制球難
ルーキーイヤーは入寮の際にウクレレを持参し、報道陣を前に「男の勲章」を熱唱して話題になったが、春先の練習試合で一死も取れず5失点で降板、7月3日には二軍で先発も初回に4安打4四球で0.2回8失点KOを喫するなどイースタンリーグで17試合に登板したが、48.0回で38四球という乱調もあって防御率7.13に留まった。翌20年もフォーム固めに苦しみ、一時はキャッチボールすらできない状態となった。同年はイースタンリーグでもわずか1試合登板、フェニックスリーグでもイニング5四球を記録するなど厳しい1年となった。

野手転向
21年はイースタン・リーグで31試合に登板して防御率こそ1.83だったが34.1回で40四球という制球難は改善せず、オフには野手転向を念頭にした育成での再契約となった。フェニックス・リーグでは野手転向後の初打席で逆転の2点タイムリーツーベースを放ち、阪神戦では藤浪から3打席連続ヒットを記録、投手への未練を断ち切れず11月1日にはマウンドへ上がったが、この試合でも結果を残せなかったことで気持ちが吹っ切れた。


初記録
初登板
初勝利
初奪三振
初完投
初セーブ


  投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
通算


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
通算


  二軍投球成績
チーム 登板 完投 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四死 三振 失点 自責 防御率
19 横浜 17 0 2 3 0 48.0 46 4 39 37 45 38 7.13
20 横浜 1 0 0 0 0 1.0 2 0 1 0 2 2 18.00
21 横浜 31 0 3 1 0 34.1 19 0 44 21 11 7 1.83
通算 3年 49 0 5 4 0 83.1 67 4 84 58 58 47 5.08