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三上 朋也



35
名前 みかみ ともや
生年月日 1989年4月10日
経歴 県立岐阜商高−法政大−JX-ENEOS−横浜(13年D4位)−巨人−新潟
入団年 13年ドラフト4位
在籍年 14年−22年
背番号 14年−22年[35]
投打 右投げ右打ち
守備 投手
野手
小学校1年から野球を始める。中学時代までは捕手で、県立岐阜商高に入学すると投手転向を希望したがチーム事情からサード兼任捕手となった。2年夏にはサードとして甲子園にも出場、智弁和歌山戦では6回裏にセンター前ヒットを記録している。2年秋に鍵谷監督に志願して投手に転向、3年夏にはエースとして甲子園予選に臨んで初戦の本巣松陽戦では先取点こそ許したが5回1失点、打っても2本のツーベースと投打に活躍したが、中京に3対6で破れた。高校通算18本塁打。野手としてドラフト候補にも名前が上がったが法政大学へ進学。

年間4完封
法大では1年春の新人戦にレフトで出場したが2年春から投手に専念し、リーグ戦初先発となった慶大戦では7回を4安打、1四球で1失点に抑えて、1年後輩の三嶋とのリレーで勝利に貢献した。3年春の立教戦で7回1失点に抑えてリーグ戦初勝利、東大戦でも8回無失点に抑えて2勝目を記録した。3年秋は未勝利に終わったが、4年春には早大戦で7安打を打たれながら要所を締めて初完封を達成すると、翌週にも明大戦で3安打、無四球という圧巻の内容で完封勝利。4年秋にも2完封を含む4勝2敗を記録。六大学通算は10勝8敗に留まったが、4年の春秋で8勝4敗と大幅に数字を伸ばした。また大学通算で打率.276と得意の打撃でも好成績を残した。

都市対抗優勝
ドラフト候補になったが志望届は提出せずに社会人のJX-ENEOSに入社。1年目には都市対抗野球本選の初戦となるJPROJECT戦の先発を任されて6.1回1失点で都市対抗野球のデビュー戦で勝利投手になった。パナソニック戦でも勝利投手にはなったが8回途中で5失点、決勝戦でも先発を任されたがJR東日本打線に打ち込まれて3回自責3で降板、チームは都市対抗野球優勝を飾ったが期待を超えるような活躍は出来なかった。

都市対抗優勝
社会人2年目となった13年にはスポニチ大会後に大久保監督から広島カープのバリントンのフォームを参考にして腕を少し下げたほうが良いとのアドバイスを受けてフォームを変更。新フォームは監督も驚くほど腕を下げたサイドスローに近いフォームとなった。急速は落ちたが制球力が向上し、変化球のキレも増した三上は都市対抗野球で3試合に登板して防御率0.63、前年に打ちこまれたJR東日本との再戦となった決勝戦ではを6.2回で3安打、1失点に抑え込んで2年連続都市対抗野球優勝に大きく貢献した。都市対抗後のカナダ遠征から横手投げに加えて上手投げからのピッチングも投球に織り交ぜて球種の少なさを補った。

横浜入団
日本選手権では初戦のパナソニック戦で8回途中まで3安打に抑え込んだが守備の乱れから先制を許すと、打線が二桁安打を放ちながら秋吉に零封されて敗戦となった。同年のドラフト会議で横浜から4位指名を受けて入団。なお三上はENEOS時代に通っていた事務所が桜木町にあったため、休憩時には事務所上のカフェテラスから横浜スタジアムを眺めていたとか。

無死満塁を零封
ルーキーイヤーにはヤクルトとの開幕戦で三嶋が2回9失点と試合を壊した直後の3回裏からマウンドに上がって3イニングを1安打、無四球で4奪三振という上々の内容でデビュー戦を飾った。4月2日の巨人戦では5対0から高橋尚が3者連続ホームランを被弾して2点差に追い上げられた6回表に無死走者なしという場面でマウンドに上がったが、いきなり3四死球で無死満塁という大ピンチを作ってしまう。継投も考えられる状況で中畑監督が続投を指示すると、三上は続く代打高橋由へのカウントも3−0としてしまったが、そこから3球ストライクを続けて見逃し三振に切って取ると、長野をショートゴロ併殺に打ち取って無失点で切り抜けた。だが試合は8対3で迎えた8回表にイニング10失点を喫して大逆転負けとなった。

開幕から28試合で自責1
開幕から4月23日の巨人戦まで9試合(13イニング)を投げて被安打わずか4で無失点という抜群の結果を残すと、調子の上がらない山口、ソーサに代わって抑えに指名された。4月27日の阪神戦で梅野が打ち上げた飛球が強風に乗ってスタンドに飛び込んで連続イニング無失点はストップしたが、続く試合から再び17試合連続で自責点0を記録して一時は防御率0.30という驚異的な数字を残した。だが交流戦が明けると6月29日の広島戦で會澤翼が変化球を狙い打った打球がレフトスタンドに飛び込んで初敗戦、7月には8登板中4試合で失点、7月25日のヤクルト戦では1点差に追い上げられて、なお二死二、三塁というピンチを招いた所でリリーフを送られて翌日から中継ぎに配置転換となってしまった。

11試合連続ノーヒット
中継ぎ降格となった三上だったが降格後初登板となった7月30日の巨人戦から11試合連続(11.2イニング)でノーヒットに抑える驚異的なピッチングを見せて、わずか2週間で抑えに復帰。8月には12試合の登板で被安打2、四球3で無失点という完璧な仕事をやってのけたが、疲労から「日に日に体が動かなくなるのがわかった」という三上は9月2日の阪神戦で3安打を集中されて逆転サヨナラ負け、24日の阪神戦ではゴメスに勝ち越しツーランを浴びて敗戦と正念場の9月に月間3敗を記録。勝ちパターンを失ったチームも失速して初のCS進出はならなかった。終盤に数字を落としたにもかかわらず65試合の登板で防御率2.33、球団の新人新記録の21セーブを記録。新人王投票では5票(4位)に留まったが申し分のないルーキーイヤーとなった。

右肘痛から復帰
15年はキャンプで右肘痛を発症、二軍で調整を続けたが痛みが消えず「もう投げられないのかな」と思い悩む日々が続いたが、7月になって首から背中にかけての神経が圧迫されている事が右肘痛の原因である事が判明。リハビリで8月8日に一軍昇格を果たすと同日の阪神戦で2回を無失点に抑えるなど合流後に12試合(13イニング)連続無失点を記録、抑えの座は山崎康に明け渡したが山崎を上回るほどの安定感で8回にゼロを並べ続けた。

最速20ホールド
16年は開幕戦で2四球2暴投の大乱調も何とか1失点で切り抜けると、その後は11試合連続無四球という安定感のあるピッチングでチームを支えた。5月5日のヤクルト戦からは10試合(11イニング)連続無失点を記録、6月15日の日本ハム戦では10回表に中田が打ち上げた飛球が強風に戻されてレフトポール際に飛び込む不運で初敗戦を喫したが、7月2日の広島戦で両リーグ最速で20ホールドに到達。2度目の選出を果たしたオールスター明けからは疲労もあったのか7試合中4試合で失点と苦しんだが、8月3日の阪神戦から5連投で無失点、うち2試合では不調の山崎康に代わって抑えを任された。

CS
59試合に登板して防御率2.61という好成績を残して球団史上初めてのCS進出に貢献、CSでは巨人とのファーストステージ初戦で3対2で迎えた8回裏二死二塁でマウンドに上がると、代わり端の見事なピックオフ・プレーで二塁走者を刺したかに思われたが、塁審が主審のプレーコールを確認していなかったため判定を行わないというミスを犯したため大きなブーイングが上がった。だが三上は動揺を見せることなく代打相川をセカンドゴロに打ち取って無失点に抑えて見せた。翌日の第2戦では同点で迎えた8回裏に先頭の坂本にツーベースを打たれたことをきっかけに勝ち越し点を許して敗戦投手となったが、第3戦では同じく同点で迎えた8回裏に坂本を打席に迎えると追い込んでから意表を突くオーバースローでショートゴロに打ち取ってファイナルシリーズ進出に貢献した。

6月までに37試合登板
17年は4月に14試合、5月12試合、6月に11試合と連日のように起用されてブルペンを支えたが、登板過多が響いたのか5月17日の広島戦で4失点、6月19日のオリックス戦でも4失点、7月23日の巨人戦で3失点、30日の巨人戦では2本塁打を浴びて敗戦投手と複数失点を喫する試合が多く、8月18日の巨人戦で陽に同点スリーランを被弾して登録抹消となった。9月上旬に復帰したが10日の阪神戦で四球と暴投などでピンチを背負って伊藤にサヨナラ打を浴びるなど苦しいシーズンとなった。広島とのCSファイナル第4戦では6回裏の無死満塁でリリーフして連続三振を奪い勝利の立役者になったが、日本シリーズでは2勝3敗で迎えた第6戦の延長11回裏に一死一、二塁でリリーフしたが二死から川島にサヨナラヒットを打たれて日本一を逃すことになってしまった。

スピードアップ
18年も開幕早々に巨人3連戦で3連投するなどチームの8連勝に貢献、7試合連続無失点で迎えた4月29日の中日戦で福田のソロを被弾したが、次戦から8試合連続無失点と勝ちパターンの6〜7回を抑え続けた。6月22日の中日戦で延長11回裏の無死一、二塁で登板すると二死満塁までは持ち込んだが大島が押し出し四球を投じてサヨナラ負け。27日からは3試合連続失点とシーズン中盤から多少成績を落としたが、リーグ5位の65試合に登板して防御率3.05、リーグ4位の25ホールドを記録。無走者時の投球間隔がリーグ最少の10秒4というテンポの良さを評価されてスピードアップ賞に選出された。

手術から復帰も
オフにはオーストラリアに渡ってウインターリーグに参加、大きな休みなく迎えた19年は日本代表に初選出されて春先のメキシコ戦で登板した。だが登板過多が響いたのか開幕直後の4月3日ヤクルト戦でサヨナラ押し出しを含む3者連続四球を出すと、13日に右ひじ痛で抹消となりクリーニング手術を受けて離脱した。手術からわずか3か月後の8月20日に二軍で復帰するといきなり150キロを投じて、9月8日に早くも一軍昇格、同日の中日戦で0対1で迎えた6回裏に登板したが滅多打ちにあって翌日に抹消となった。

復活
20年もクリーニング手術後の回復が思わしくなく、7月29日に昇格したが2試合連続で失点を喫して抹消、9月18日に再昇格すると敗戦処理としてまずまずのピッチングを見せたが完全復活はならなかった。翌21年は開幕直後に1軍に昇格したが4月16日の巨人戦で菅野のピッチャー返しを右膝に受けて負傷降板となり翌日に抹消となった。だが4月30日に復帰すると5月に月間13試合に登板するなど苦しい投手陣を支えた。主にビハインドでの登板ながらテンポの良いピッチングで流れを変える貴重なリリーフとして活躍、シンカーやカットボールなども積極的に多投するなどシンプルな投球スタイルからも脱却して40試合に登板、防御率3.86と結果を残した。

47号
22年は主にビバインドでの登板ながら前半戦で17試合に登板、テンポの良いピッチングで試合にリズムを取り戻す役割を果たした。だが首位攻防戦となった8月26日のヤクルト戦で7回表の二死走者なしから同年に56本塁打を記録する村上にカウント2-0から真ん中にストレートを投げ込んで特大の47号を被弾、翌日に抹消となって同年オフに戦力外通告を受けた。翌23年は巨人と育成契約を結んだ。

巨人移籍
巨人では5月4日に支配下契約を勝ち取ると、翌5日の中日戦で1点リードの6回裏に背番号053のまま移籍後初登板、元同僚の細川と対戦して四球としたが、石川を空振り三振、ビシエドをショートゴロ併殺に打ち取って無失点に抑え込んだ。ハマスタ凱旋登板となった11日の横浜戦では宮ア、牧を打ち取って勝利に貢献した。21日の中日戦では細川に被弾したが中継ぎの一角としてまずまずの成績を残した。だが夏場に抹消となると9月2日の横浜戦で復帰したが一死しか取れず5失点と大炎上、翌日にはインフルエンザと診断されて抹消となり同年限りで戦力外となった。

::
24年はイースタンリーグに新規参入となったオイシックス新潟に入団。


初記録
初登板 2014年3月28日ヤクルト戦
初勝利 2014年9月15日中日戦
初奪三振 2014年3月28日ヤクルト戦:小川から
初完投
初セーブ 2014年5月6日巨人戦


14 15 16 17 18 19 20 21 22 23
オールスター 2回


  投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
14 横浜 65 0 0 1 4 21 65.2 55 3 27 4 67 2 1 18 17 2.33
15 横浜 21 0 0 1 1 0 22.1 16 0 9 1 20 3 0 3 2 0.81
16 横浜 59 0 0 2 4 2 58.2 47 7 18 2 36 2 0 21 17 2.61
17 横浜 61 0 0 3 3 0 51.0 47 8 16 2 29 1 0 31 29 5.12
18 横浜 65 0 0 1 1 0 56.0 55 3 20 3 40 2 0 19 19 3.05
19 横浜 6 0 0 0 1 0 4.2 5 0 6 0 5 1 0 4 3 5.79
20 横浜 10 0 0 0 0 0 13.0 13 0 6 1 7 1 0 4 4 2.77
21 横浜 40 0 0 2 1 0 35.0 36 5 9 1 25 0 0 15 15 3.86
22 横浜 19 0 0 0 0 0 24.2 28 3 8 1 19 0 0 10 10 3.65
23 巨人 22 0 0 0 1 0 15.2 18 1 8 4 9 0 0 8 8 4.60
球団 9年 346 0 0 10 15 23 331.0 302 29 119 15 248 12 1 125 116 3.15
通算 10年 368 0 0 10 16 23 346.2 320 30 127 19 257 12 1 133 124 3.22


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
14 横浜 65 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 .000
15 横浜 21 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
16 横浜 59 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 .000
17 横浜 61 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 .000
18 横浜 65 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
19 横浜 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
20 横浜 10 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
21 横浜 40 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
22 横浜 19 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 .000
23 巨人 22 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .00
球団 9年 346 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 0 2 .000
通算 10年 346 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 0 2 .000


  日本シリーズ投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
17 横浜 3 0 0 0 0 0 1.0 2 0 0 0 0 0 0 1 1 9.00
通算 1年 3 0 0 0 0 0 1.0 2 0 0 0 0 0 0 1 1 9.00


  日本シリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
17 横浜 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 1年 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000


  クライマックスシリーズ投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
16 横浜 6 0 0 0 1 0 4.1 6 1 1 0 3 0 0 2 2 4.15
17 横浜 5 0 0 1 0 0 3.1 4 1 2 1 2 0 0 2 2 5.40
通算 2年 11 0 0 1 1 0 7.2 10 2 3 1 5 0 0 4 4 4.70


  クライマックスシリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
16 横浜 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
17 横浜 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 2年 11 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000


  オールスター投球成績
回数 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
通算 2回 2 0 0 0 0 0 2.0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0.00


  二軍投球成績
チーム 登板 完投 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四死 三振 失点 自責 防御率
15 横浜 17 0 1 1 2 18.0 17 1 11 13 6 6 3.00
17 横浜 4 0 0 0 0 5.0 4 0 1 2 2 2 3.60
19 横浜 9 0 0 0 3 9.1 13 1 0 10 3 3 2.89
20 横浜 22 0 2 2 7 21.1 18 1 7 18 10 8 3.38
21 横浜 13 0 1 0 3 13.2 16 1 3 12 8 4 2.63
22 横浜 9 0 0 0 1 8.2 4 0 2 6 1 1 1.04
23 巨人 20 0 0 2 5 21.0 11 0 4 19 4 3 1.29
通算 7年 94 0 4 5 21 97.0 83 4 28 80 34 27 2.51