小田 康一郎
3
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名前 |
おだ こういちろう |
| 生年月日 |
2003年8月15日 |
| 経歴 |
中京大中京−青山学院大−横浜(25年D1位) |
| 入団年 |
25年ドラフト1位 |
| 在籍年 |
26年− |
| 背番号 |
26年−[3] |
| 投打 |
右投げ左打ち |
| 守備 |
内野手 |
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:野球を始める:
東京都八王子市出身、6人兄弟という大家族の5人目として生まれて、3歳から野球に興味を持って保育園の年長時代に父親が監督を務めていた八王子リトルで硬式野球を始めた。父親に言われて理由もわからないまま左打者に転向、四谷中では八王子シニアでプレーして関東大会で優勝して投手でベストナインに選出された。なお八王子シニアでは筒香の応援歌を使用していた。
:スーパー1年生:
中京大中京に入学したが入学直後に肺炎にかかって東京の自宅で療養、復帰して本格的に野球の練習を始めたのは夏の大会前までずれ込んだが、練習試合などで頭角を現して1年夏からレギュラーになった。県大会では打率.632を記録して決勝では2本のタイムリーを放って甲子園進出に貢献した。甲子園では1年生ながら背番号5を任されて3回戦の東海大相模戦で7回に勝ち越しタイムリーを放ってチームを44年ぶりのベスト8に導いた。準々決勝も勝ち抜いてベスト4に進出したが準決勝では奥川を擁する星稜と対戦、奥川に圧倒されてチームも敗れた。
:暴投:
4番エースで主将という大黒柱を任された3年夏は県大会の初戦で投手として自己最速の148キロを計測したが、制球が定まらず4回途中で降板、8対8の同点で迎えた9回裏の無死満塁で再びマウンドに戻ったが暴投でサヨナラ負けとなり最後の夏を終えた。高校通算34本塁打。
:打者専念:
青山学院大に進学すると打者一本に専念して1年春から指名打者でスタメン出場、打率.310を記録したがヒット狙いのバッティングでホームランは1本も打てなかった。監督やコーチと話し合って強いスイングを目指した1年秋は開幕から連続打数ノーヒットが続くなど不振に苦しんで打率.133に留まったが、2年春にはリーグ3位の打率.356に加えて初ホームランも放ってベストナインに選出された。全日本大学野球選手権では2回戦の国際武道大戦で3ランを含む4安打を放つなど打率.412を記録して18年ぶりの全国制覇に貢献した。
:任せたぞ:
3年時には春に腰痛、夏に足を痛めて、秋には右有鉤骨を骨折して手術と故障に苦しんだ。痛みがある状態で振り込みをして感覚が壊れないように、あえて最小限の振り込みで年を超えて迎えた4年春は日大戦で2対2で迎えた10回表にタイブレークの無死一、二塁で打席の準備をする小田に監督からバントの指示が出たが無視し続けると、監督から「打ちたいか?」と聞かれて「打ちます」と応えて、「任せたぞ」の声を背に受けながら打席に入ってスリーランを放って見せた。三冠王を目指した同季は自己最多の3本塁打、11打点を記録したが打率は.277に留まった。
:横浜入団:
日米野球では初戦でエスコンでホームランを含む3安打を放つなど5試合に出場して打率.348を記録、秋には不調に苦しんだが史上3校目のリーグ戦6連覇に貢献した。同年のドラフト会議で佐々木麟太郎を競合の末に逃した横浜から1位指名を受けて入団した。 |
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| 初記録 |
| 初出場 |
2026年6月7日ソフトバンク戦 |
| 初安打 |
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| 初本塁打 |
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| 初打点 |
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| 初盗塁 |
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打撃成績
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チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
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| 通算 |
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二軍打撃成績
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チーム |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁 |
三塁 |
本塁 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
犠打 |
犠飛 |
四死 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
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