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青田 昇



23
名前 あおた のぼる
生年月日 1924年11月22日
経歴 滝川中−巨人−阪急−巨人−大洋−阪急
入団年 53年に巨人から移籍
在籍年 53年−58年
背番号 53年−58年[23]
投打 右投げ右打ち
守備 外野手
柔道から野球へ
8人兄弟の末っ子として生まれ、幼少時代は柔道に夢中になり、近辺の村々で行われていた子供相撲大会を荒らしまわって賞金を稼いでお小遣いを稼いだ。小6の時に兵庫から神戸へ引っ越し、小学を卒業には当時存在した2年制の高等小学校に進学したが、ここでは柔道部がなかったため野球を始めた。もともと兄に誘われて草野球を行っていたこともあって多くの大会で活躍し、滝川中から授業料や衣服代、下宿代まで無料という条件で誘われたが、家計が苦しかったこともあって働きに出るつもりだった青田と家族は進学に反対したが、高等小学校の野球部長だった田中先生が青田の野球の才能を惜しみ、資金援助を願い出て進学できることになった。

野手転向
滝川中では別所の2年後輩で、もともとは投手で手榴弾投げ81メートル50センチの記録を作るほどの強肩だったがコントロールは自由奔放だった(別所は手榴弾投げ60メートル、澤村 栄治が78メートル)。野球部の監督で元巨人の主力投手だった前川 八郎は「球の速さは別所より上だった」と青田を評価したが外野手転向を指示、反発した青田は前川先生をにらみつけて返事をせず、前川先生から「いう事を聞けんならユニホームを脱げ」と言われて、翌日には平服で外野の練習を眺めてから外野転向を承諾した。

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外野転向後は前川先生から連日の猛ノックを受けて、打撃では徹底した右打ちを伝授された。3年時には4番を打ってセンベツでベスト8までチームを導いた。また中学時代には恥をかかないために勉学にも励み、担任でもあった前川先生が野球部員は答案を見ないで80点と採点した際には、納得がいかず答案を確認してもらったところ92点だったこともあった。卒業後は慶応進学を考えていたが、42年に戦争の影響で甲子園大会の春夏中止が発表されると、どうせ軍隊に行って死ぬなら、好きや野球に没頭出来て多額の契約金がもらえる巨人に行こうと決意して滝川中を退学し、17歳にして巨人に入団した。

18歳の打点王
デビューとなった夏季リーグは13打数連続ノーヒットと苦しんだが、水原川上らが相次いで兵役にとられた秋季リーグでは水原に代わってサードで起用されて開幕戦の第3打席で通算18打席目で初ヒットを放つと延長10回裏にサヨナラヒットを記録、なれないサードの守備ではエラーを連発したが、9月26日の名古屋戦で4安打を放つなどヒットを連発して、17歳にして同リーグで打率.389、夏季リーグと合わせても規定不足ながら打率.355と打ちまくった(同年の首位打者は打率.286)。2年目となった43年は大金を得て遊びすぎた影響と徹底した右打ちに対する内角攻めに苦しんで打率.223と大幅に数字を落としたが18歳にして打点王を獲得した。

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酒、たばこ、麻雀を好み、中学時代から喧嘩でも名を馳せるなど圧倒的な存在感でチームの中心になったが、2年目のシーズン後には学徒動員で工場の清掃作業などを行うことになり、練習どころではなくなると「もうお国のために戦うときだ」と感じて徴兵検査を受ける20歳まであと1年あったが志願しての軍隊入隊を決意した。まずは巨人を退団する必要があったが契約金返上を求められて読売新聞の正力社長に直談判、正力社長は戦後は巨人に復帰するという条件で許可してくれた上に選別に30円を渡してくれた。

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「どうせ死ぬなら一番危ない所」で飛行機にも乗れる航空隊に志願して入隊、翌44年には大刀洗陸軍航空隊の加古川航空隊に配属された。半年間の訓練で90%のふるい落としが行われたが、青田は最後まで残って大刀洗飛行学校の本校教育に選ばれた。ここで青田は満州行きを志願したが、区隊長が志願書を破り捨てて青田の命を救ってくれた。また多くの同期が特攻隊に配属される中で、優れた操縦技術を身につけた青田は戦闘隊に選抜されたが、青田は45年2月に特攻隊を志願し、志願書を提出した。だがここでも上官が「死に急ぐな」と認めず青田は命をを戦後に繋げることになった。

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青田は後に国にマインドコントロールされていたと振り返ったが、日本敗戦の当日に上官命令で米軍に飛行隊員であることがばれないようにという理由で自身の飛行日誌を焼いたときに「また野球ができるかもしれない」という希望が湧いてきた。

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戦後すぐに阪急から連絡があったが、正力との約束があった事もあり巨人に連絡したところ戦後の混乱で野球どころではないから阪急に一時的に貸すという返答があり、阪急と契約金なしで入団した。47年からは川上に誘われて同じ長屋に住み、翌48年には巨人に復帰。青バットの大下に刺激を受けてキャンプで赤バットの川上、千葉らと共に打撃談義を毎夜行い、それまでのライトヒッティングから、ボールを巻き込むような独特のフォームに変更した。

二冠王
47年は打撃フォームを模索中だったこともあって本塁打こそ3本から11本に増加したが打率.233と苦しんだ。だが翌48年は開幕直後の4月10日急英戦で生涯の中でも抜群という場外弾を含む2本塁打を放ったのを皮切りに月間5本塁打を記録、10月14日の大陽戦では3本塁打を含む5安打を放ち、15塁打、7打点を記録するなど長打を連発して大下の持つ日本記録シーズン20本塁打を大幅に更新する25本塁打を放ち本塁打王を獲得した。また同年には最終戦までもつれる熾烈な首位打者争いを続け、南海戦でライバルの山本の前にバントヒットを決めて、青田.3057、小鶴.3053、山本.3051とわずか4毛の差で逆転、8回表の最終打席に青田は立つつもりだったが三原監督から「3分がまんせい。たった3分耐えたらお前の名はプロ野球の歴史に永遠に残るんだ」と諭されて、甲子園球場が罵声に包まれる中で代打が送られて二冠王を獲得した。

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49年には28本塁打、102打点、翌50年には1試合5安打を3度も記録するなどキャリアハイとなる打率.332に33本塁打、134打点を記録。51年には32本塁打、105打点で二冠王を獲得して、青田はMVPを確信していたがMVPは同僚の川上が選出された。納得がいかない青田は鈴木セ・リーグ会長に聞いたところ、やくざ4人相手にケンカして勝つなど日頃からの素行や品格に問題がある事を告げられた。また素行問題は青田が生前に殿堂入りを果たせなかった原因ともいわれる。

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51年の秋に開催された日米野球でも日本チームトップの打率.333を記録したが、メジャーで首位打者を獲得したフェインから「もっとバットを立てて構えたほうが良い」とアドバイスをされて打撃フォームを変更したところ168センチと小柄だった青田にはフィットせず翌52年は打率260、18本塁打と大幅に成績を落としてしまった。すると例年のように契約交渉でもめていたこともあって青田を嫌っていた球団代表がトレードでの広島への移籍を勧めたが青田は拒否してB級10年選手の権利を行使して洋松ロビンスへ移籍。

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移籍初年度は打撃フォームが戻らず不本意な成績に終わったが古巣巨人戦で盟友別所からの2安打を含むサイクルヒットを記録した。移籍2年目の54年には打率.294、31本塁打で本塁打王と復活、翌55年も好調を持続していたが、3本塁打を放った8月23日の阪神戦で9回に追いつかれて迎えた延長戦で死球を受けて右手を骨折しタイトルはならなかった。56年には8月21日の阪神戦から4試合連続ホームランを放つなど25本塁打で本塁打王に輝いた。

サヨナラ満塁本塁打
阪急時代の47年6月7日巨人戦と洋松時代の54年4月27日巨人戦でサヨナラ満塁ホームランを放った。サヨナラ満塁弾2回は広野 功と並ぶ日本記録で、54年の一発は4点を追う9回裏二死走者なしから川上の拙守で1点を返し、なおも二死満塁から放った劇弾だった。56年5月6日広島戦のダブルヘッダーでは第一試合の8回に長谷川から逆転ホームランを放つと、第二試合で橋本から3本塁打を放ち、2試合をまたいでプロ野球史上初の4打席連続ホームランを記録した。

5度目のホームラン王
57年には最終試合を残してリーグトップの22本塁打を打っていた、同数でタイトルを争っていた同郷の佐藤 孝夫が「青田さん、もう打たないで下さいよ」と声をかけると「今日は休みや」と言って試合を欠場し、佐藤にもタイトルを取らせた。無類の弱さを誇った50年代ホエールズにあって、本塁打王を3回獲得(通算5回)するなど一人気を吐いた。

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58年は6月29日の中日戦でスライディングをした際に左足を骨折し7本塁打に終わると、オフには西鉄監督として日本シリーズ3連覇を達成した三原監督からオフレコとして翌年から大洋監督に就任することを告げられた。
巨人時代の49年に三原監督の退陣を迫る連判状に名を連ねたことに後悔していた青田は恩返しをすることができると喜んだが、続けてスター選手中心の野球ではなくベンチメンバーをフルに使う機動力野球を目指すから、「君がいては邪魔なんだ。大洋から身を引いてくれ」と頼まれた。青田は怒り、大洋から自由契約を告げられるとマスコミに三原監督が大洋監督に就任をリークし、結果的に三原の大洋監督就任が1年遅れることになった。

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59年は阪急に移籍するも両足首を痛めて思ったような結果が残せず、本塁打王5回、打点王2回、首位打者1回という輝かしい成績の残して引退した。3番打者として史上最多の1384試合に出場するなど現役時代のほぼ全てを中軸としてプレーした。翌60年のシーズン開幕前には大洋監督に就任した三原から呼び出しを受けてセ・リーグの情報を聞かれた。青田は首にしておいて情報を得ようという三原の人の悪さに苦笑しながらも各チームの戦法や選手の長所/短所、クセなどを聞かれた。三原は感謝し、謝礼として10万円を払ったが、シーズンで見事に大洋が優勝を果たすと、三原は「君の情報は実に正確だった」と追加で10万円を贈った。

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60年は知人の会社で営業的な仕事をこなして人生経験を積むと、翌61年は報知新聞で野球評論家としてデビュー、広島カープ担当となったがRCCラジオからの依頼で行った解説が話題になり、TSBでもテレビ解説を任されるようになった。かなりの毒舌だったがこれを聞いた阪神のオーナーが気に入った事が縁になって阪神のヘッドコーチ格に就任、三原率いる大洋とのデッドヒートを制してリーグ優勝を果たした。

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72年8月に別当監督の後を受け大洋の代理監督に就任するや、1勝14敗というすさまじい成績を残し、3位だったチームを5位にまで引き下げて、ストレスからか胆石を発症して入院となり、あっというまに宮崎代理代理監督にバトンを渡した。翌73年に大洋の監督を引き受ける際には「優勝したら日本シリーズの入場収益金の20%を頂きたい」とオーナーに大見得を切り、5月25日まで16勝6敗という圧倒的なスタートダッシュを見せた。だが6月に失速すると7月1日の夜に知人からコーチに反青田がいるとの助言を受けて気力がなくなり、60勝64敗6分けの5位に終わった。この年のセリーグは大混戦で結局巨人がわずか貯金6でV9を達成し、大洋とのゲーム差も5だった。

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現役時代は「泣くな別所」でも有名な久保田喜一から「ジャジャ馬」というニックネームを授けられて定着、本人も気に入っており評論家になってからの評論のタイトルは「ジャジャ馬の一撃」、遺稿ともなった自伝のタイトルも「ジャジャ馬一代」と付けられた。引退後は阪神、阪急とコーチで行く先々で優勝、このことから優勝請負人の異名も取った。またロシアでの少年野球発展に力を尽くすなど、最期まで野球界に貢献し続けた。


監督
61勝
78敗
8分
勝率.439
Aクラス0回
その他の記録
4打席連続本塁打 56年5月6日広島戦
サイクルヒット 53年4月23日巨人戦
本塁打王5回 3位
逆転サヨナラ満塁本塁打 54年4月27日巨人戦

初記録
初出場 1942年7月16日大洋戦
初安打 1942年9月12日大和戦:石原から
初本塁打 1942年10月5日大洋戦:古谷から
初打点
初盗塁
記録達成日
1000安打
1500安打 56年5月22日国鉄戦
200本塁打 55年8月16日
250本塁打 57年8月25日中日戦
1000打点 58年5月24日中日戦(史上3人目)


42 43 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59
首位打者 1回
本塁打王 5回
打点王 2回
最多安打 1回
ベストナイン 5回
オールスター 6回


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
42 巨人 42 124 20 44 4 0 1 51 18 7 5 2 - 7 0 5 - 9 .355
43 巨人 84 323 25 72 10 6 0 94 42 10 10 1 - 22 0 21 - 4 .223
46 阪急 96 411 57 121 28 5 3 168 51 21 6 0 - 19 2 23 - 8 .294
47 阪急 118 473 55 110 19 4 11 170 63 22 7 0 - 34 0 26 - 2 .233
48 巨人 140 569 95 174 31 2 25 284 99 19 11 1 - 20 2 52 - 6 .306
49 巨人 134 557 93 153 28 3 28 271 102 6 4 1 - 37 4 58 - 8 .275
50 巨人 137 557 94 185 22 3 33 312 134 29 15 0 - 42 2 41 11 5 .332
51 巨人 114 471 101 147 27 2 32 274 105 22 8 0 - 47 3 39 9 2 .312
52 巨人 114 427 77 111 18 1 18 185 79 6 3 1 - 38 2 32 15 4 .260
53 洋松 105 404 45 99 18 4 9 152 40 2 2 2 - 31 1 30 14 4 .245
54 洋松 124 469 65 138 23 0 31 254 74 3 2 0 1 33 3 52 17 10 .294
55 大洋 103 381 40 102 23 1 17 178 54 3 1 0 2 29 2 45 10 5 .268
56 大洋 129 502 48 130 13 2 25 222 65 1 3 0 2 35 0 69 16 6 .259
57 大洋 129 497 53 136 19 1 22 223 61 1 3 0 1 29 0 56 13 4 .274
58 大洋 76 260 21 67 8 0 7 96 30 1 0 0 1 14 1 29 7 4 .258
59 阪急 64 141 9 38 5 0 3 52 17 2 0 0 2 6 2 15 6 2 .270
球団 6年 666 2513 272 672 104 8 111 1125 324 11 11 2 7 171 7 281 77 33 .267
通算 16年 1709 6566 898 1827 296 34 265 2986 1034 155 80 8 9 443 24 593 118 83 .278


  日本シリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
51 巨人 5 22 4 3 0 0 1 6 1 0 0 0 - 0 0 2 1 0 .136
52 巨人 6 22 3 6 0 0 0 6 4 0 0 1 - 2 0 1 0 0 .273
通算 2回 11 44 7 9 0 0 1 12 5 0 0 1 - 2 0 3 1 0 .205


  オールスター打撃成績
回数 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
通算 6回 7 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000


  監督成績
チーム 順位 勝利 敗戦 分け 勝率 ゲーム差 本塁 被本 盗塁 犠打 打率 防御率 失策
72 大洋 5 1 14 2 .067 17.0 135 128 44 65 .242 3.66 81
73 大洋 5 60 64 6 .484 5.0 125 109 45 67 .243 3.30 94
通算 2年 61 78 8 .439 22.0 260 237 89 132 .243 3.48 175
72年は代理監督。:「ゲーム差」から右は一年間のチーム成績