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須藤 豊



78
名前 すどう ゆたか
生年月日 1937年4月21日
経歴 高知商−毎日−大毎−巨人
入団年 90年から監督
在籍年 90年−92年
背番号 90年−92年[78]
投打 右投げ右打ち
守備 内野手
竜馬、須藤、中岡
37年4月21日に高知県安芸都安芸長で11代続いた船大工の5人兄弟の末っ子として生まれ、「坂本竜馬と中岡慎太郎の像の真ん中にボクの像を立てて見せるからね」という壮大な野望を胸に育った。須藤の憧れは竜馬ではなく、中岡だったそうだ。

国体優勝
兄の影響で野球の始めた須藤は町立安芸中学ではサード、県立高知商業ではショートを守り2年時には春夏連続で甲子園に出場。夏の大会の初戦で須藤は足を負傷して傷口からバイキンが入り破傷風になってが、監督の「試合に出ろ」の一言で、以後の試合にもフル出場した。同年の秋に高知商業は国体優勝を果たした。

毎日入団
須藤はプロから高く評価され、数球団からスカウトされたが家族の方針で進学を決めていた。ところが監督の「お前は毎日に行け」の一言で毎日に入団した。新人ながら133試合に出場し、9月30日高橋戦ではプロ初ホームランを満塁弾で飾っている。

合併
58年には毎日と大映が合併しポジション争いが激化。須藤は春のキャンプで肘を痛めてしまったが、それを隠して練習を続けてしまいケガが悪化。103試合には出場したが打率.190と結果が残せなかった。

日本シリーズ
60年には初めて日本シリーズに出場したが代打で三振したのみで終わってしまった。チームも大洋の前に4連敗を喫して無残な敗退。第二戦で飛び出したスクイズの采配を巡って永田オーナーと西本監督が確執し、優勝監督が解任という前代未聞の事態にまで発展した。西本は「酒飲ませるところ連れてけ。おれ、飲むところ知らんからなあ」と須藤を誘って銀座、新宿を飲み歩いた。西本はうめくように「悔しい」と洩らしていたという。

巨人へ
61年に宇野監督に代わってからは出場機会が激減した。そしてシーズン中に宇野監督が代打を出そうとベンチを物色し「なんや、須藤しか居らんのか」と失言したときに、土佐のいごっそうを自任していた須藤の怒りは爆発した。須藤はバットを掴むと、振り回しながら宇野監督を追い回した。須藤は翌日に二軍に落とされると同年のオフに巨人にトレードに出された。

ホームラン
65年4月18日中日戦で中山から実に4年ぶりのホームランを放った。また須藤は入団時から6年連続1本塁打という怪記録も持っている。

コーチ
巨人に移籍後はヤジ将軍や、ムードメーカーとしてV9に貢献。スーパスターの長嶋に「きちんと投げろ」と文句を言ったり、川上監督から注意を受けても自説を曲げずに認めさせたりといった豪快なエピソードを残した。だが65年に土井 正三が入団すると出番が激減し、川上監督から二軍のコーチ就任を要請された。須藤はこれを固辞したが毎年のようにコーチ就任を要請され、68年には選手兼任で二軍コーチに就任。イースタンリーグの試合に出場しながら二軍選手を鍛え上げた。

退団
69年にコーチ選任となると選手たちの出身地や家族構成、好きな食べ物などを調べて、コミュニュケーションを取り求心力を高めた。74年からは一軍の守備コーチになったが、75年から監督に就任した長嶋とチームの方針を巡って対立し同年のオフに退団した。

サラリーマン
須藤は埼玉県の向山工場に就職しサラリーマンになった。須藤は作業着にヘルメット、安全靴を履いて熱と騒音の中で鉄を作った。朝は5時に置きて、20時半に帰宅する生活を続けた須藤は、1年間はTV中継も一切見ずに野球と縁を切った。須藤はこの時の苦労がいろいろな面で役になったという。

二軍監督
80年には毎日時代の恩師で大洋のゼネラルマネジャーをしていた別当に「ウチのファームの面倒を見てくれ」と声をかけられて二軍監督に就任。当時の二軍には高木豊、市川、山崎らがいた。81年のシーズン終盤に大洋から3年間の契約延長を打診され、須藤はより好条件を提示されていたヤクルトを断って大洋の二軍監督を続ける道を選んだが、大洋フロントは11月8日に須藤二軍監督の解任を発表した。

解任
当時の大洋フロントは長嶋 茂雄の監督招致に躍起になっており、長嶋からも好感触を得ていた。その長嶋ともめた経緯のある須藤は長嶋監督就任の障害になると判断し前言を撤回してのクビとなった。退団の決まった翌日にグラウンドで選手に挨拶した須藤は選手たちに胴上げされた。須藤はその後も二軍の優勝で幾度か胴上げされているが、この胴上げが最高の思い出だという。

V4
83年から巨人の二軍コーチに就任すると、86年からは二軍の監督になってイースタンリーグV4を達成した。また打者転向の志願してきた斎藤雅樹に「今まで努力してきたことをもっと大切にしろ、バカヤロー!」と一喝し、打者転向を思いとどまらせた。

大洋監督へ
89年に大洋の古葉監督が5年契約の3年目で退団した。「広島を何度も優勝させた男でさえ、"あのチーム"を去るときには悲惨な姿になっていた」。その後任探しはほとんど倒産した会社の管財人を探すようなものだった。多くの候補者が浮かんでは消えていった。そして10月22日、巨人の二軍監督としてアリゾナ教育リーグに参加していた須藤のもとにマスコミから電話が殺到した。共同通信社が須藤大洋監督をすっぱ抜いたのだ。

監督就任
須藤は二軍監督を解任された経緯から大洋のフロントに不満を持っていたが、代理人がアリゾナに持ってきた中部オーナーからの親書にクビにしたことを詫びる文言が入っていた事で須藤は過去を水に流して大洋の監督を受けることに決めた。

おい元木でいいんじゃないか!?
11月26日、監督としての初仕事であるドラフト会議、大洋は8球団競合の末に野茂を外した。それは予想されたことだったが問題はハズレ1位を誰にするかだった。残った目玉は上宮高校の元木大介だった。元木は「巨人以外には行かない」と公言していたが巨人は大森を1位指名した。これを見た久野球団社長は「おい元木でいいんじゃないか!?、元木でいこうや」と発言し、大洋の円卓会議は紛糾した。だが須藤監督は「デキ心では指名できやしませんよ」と元木を回避し、当初の予定通りハズレ1位で佐々木 主浩を指名した。

ヘンなチーム
12月8日、高知でゴルフをしていた須藤監督はラウンド終了後にある新聞記事を見た。須藤を慕う巨人の山倉が大洋に行きたいとトレードを志願したという。これに対して巨人のコメントが「山倉は巨人にいたほうがいいんだ。ヘンなチームなんかに行くより巨人にいた方がいい思いが出来るんだ」。”へんなチーム”が大洋を指していることは明らかだった。須藤は「巨人はふざけるにも程がある。私は絶対許さない。正式に抗議してもかまわん!」と激怒した。実は須藤は山倉と鹿取のトレードを巨人に申し込んでおり、鹿取も須藤の下に来たがっていたが交換要員が折り合わず、鹿取は西武にトレードされた。

要望書
秋のキャンプでは「どうして最下位になったのかもわからないし、一つのテーマを持って始めたこの練習に口出しすることは出来ないよ」と放任していたが、秋季練習が終わると全ての選手に「オフのトレーニングに対する要望書」を出した。これは2月1日のキャンプインに選手たちがどんなコンディションで望めばいいかを具体的な数字で示したで、キャンプ初日に行う5キロ走で自己の持つ基準タイムをクリアすること、ベスト体重の+−3キロでキャンプインすること、の二つが目玉で、もしどちらかでも満たせなければ二軍に強制送還されるというものだった。結果は全員が基準タイムをクリアして体重測定もクリアした。

配置転換
須藤にとって最大の悩みの種は、前年の二桁勝利投手がゼロで、二桁敗戦投手が5人という壊滅的な投手陣にあった。須藤はストッパー中山を先発、遠藤をストッパーに配置転換し、前年3勝の野村弘樹を先発の柱として起用して、なんとか戦う形を作り出した。また伸び悩んでいた谷繁を刺激するために秋元を西武から獲得して競い合わせた。

もういっちょ音頭
須藤はキャンプ終盤に「自分たちの応援スタイルをつくろうじゃないか、採用したものには監督賞の金一封をだすぞ」と選手たちに持ちかけた。当然選手たちも乗ってきて多数の応募があった。最終選考に残ったのは岡本透発案の「ごっつぁん音頭」と、清水発案の「もういっちょ音頭」で、結果は追加点を取れそうな「もういっちょ音頭」が選ばれた。実際にシーズンに入ってからも、得点が入ると「ヨッー、イッチョ、ニチョ、サンチョー、ヨッー、モーイッチョ!」とモウイッチョ音頭がベンチに鳴り響いた。

校歌
90年4月28日阪神戦の試合前、ベンチから歌声が聞こえてきた。「鵬程万里果てもなき、太平洋の岸の辺に・・」、声の主は須藤監督だった。歌は高知商業の校歌で、須藤は一小節だけ歌うと先発の中山に「この次は?」、と声をかけた。高知商業の後輩中山は「健依別のますらおは・・ですよ」、と答えた。すると須藤は「その次は!?」と続け、結局中山に校歌を最後まで歌わせた。先発転向後いまだ0勝と調子の上がらない中山は「開幕から不調でした。この試合もだめだったらファームに落とされるかもしれないと思ってた。だけどプレッシャーが歌っているうちになくなっちゃって・・、監督が先輩に見えてきたんですよ」、プレッシャーから開放された中山はシーズン初勝利を3年ぶりの完封で飾った。

ああ・・
90年7月4日から遠藤が逆転満塁ホームランを浴びるなどで5連敗で、ついに貯金ゼロになった。朝日新聞がつけた見出しは「ああ大洋(太陽)が沈んでいく」だった。

7年ぶり
100試合を過ぎたあたりから須藤は「いいかAクラスを確保するんだ!」と選手たちに叱咤激励した。そして大洋は7年ぶりにAクラスに入った。須藤は「前半戦の頑張りが無にならなかった」と胸をなでおろした。シーズンオフにはセリーグを盛り上げた須藤に特別功労賞が送られた。

健闘するも
91年には遠藤に代えてストッパーに転向させた佐々木の活躍などで、前年と同じ64勝66敗と健闘したがセリーグが大混戦だったため5位に終わった。須藤はフロントにトレードなどでの戦力補強を再三要請したが実現しないまま翌92年シーズンが開幕。フロントへの不信感に加えて、目をかけていたエース中山が不祥事で退団するなど精神的に追いつめられた須藤は7勝15敗という成績の5月2日に責任をとる形で退団した。須藤は大洋の監督を途中下車したときのことを思い出すと今でも胸が痛むという。

巨人に入団するも
93年には確執のあった長嶋監督からの説得を受けて巨人のコーチに就任した。だが「若手を育てる」という長嶋の言葉に惹かれて巨人に入ったのにもかかわらず、FAで選手をかき集める方針に納得が出来ずに退団。その後西武のコーチを務めて松井 稼頭央や大友 進を育て上げた。


監督
135勝
147敗
4分
ゲーム差42
勝率.479
初記録
初出場 56年3月21日東映戦
初安打 56年3月21日東映戦:米川泰夫から
初本塁打 56年9月30日高橋戦:中野隆夫から
初打点
初盗塁


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
56 毎日 133 372 23 90 13 3 1 112 22 8 5 9 0 18 0 51 13 26 .242
57 毎日 110 370 42 103 16 6 1 134 34 3 6 6 4 29 0 43 8 28 .278
58 大毎 103 253 22 48 7 0 1 58 11 2 1 6 0 20 0 34 4 17 .190
59 大毎 42 75 5 10 2 1 1 17 4 2 0 2 2 5 0 14 1 3 .133
60 大毎 56 84 8 20 2 0 1 25 2 2 1 1 0 5 0 17 1 6 .238
61 大毎 60 118 8 27 3 1 1 35 6 2 0 0 0 3 1 19 2 8 .229
62 巨人 92 203 17 41 10 3 0 57 6 5 2 5 0 8 1 32 6 6 .202
63 巨人 73 113 9 18 2 1 0 22 3 3 3 0 0 7 0 11 1 3 .159
64 巨人 84 225 29 63 9 1 0 74 24 9 4 6 0 11 2 26 4 3 .280
65 巨人 98 195 14 45 4 0 1 52 19 3 3 7 4 14 0 21 5 6 .231
66 巨人 70 98 4 19 3 1 0 24 6 3 0 8 0 11 1 10 4 4 .194
67 巨人 37 43 2 11 2 0 1 16 6 0 1 1 0 3 0 7 1 2 .256
68 巨人 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 13年 959 2149 183 495 73 17 8 626 143 42 26 51 10 134 5 285 50 112 .230


  日本シリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
60 大毎 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 - .000
63 巨人 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
65 巨人 4 7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 0 0 0 1 .000
66 巨人 2 1 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1.000
67 巨人 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 5回 10 11 0 1 0 0 0 1 0 0 0 2 0 0 0 1 0 1 .091


  監督成績
チーム 順位 勝利 敗戦 分け 勝率 ゲーム差 本塁 被本 盗塁 犠打 打率 防御率 失策
90 大洋 3 64 66 3 .492 24.0 90 140 86 .266 3.94 58
91 大洋 5 64 66 1 .492 10.0 66 137 130 .269 3.74 61
92 大洋 5 7 15 0 .318 8.0 97 125 87 .249 3.75 80
97 西武 1 3 0 0 1.000 ▼5 110 110 200 .281 3.63 76
球団 3年 135 147 4 .479 42.0 253 402 303 .261 3.81 199
通算 4年 138 147 4 .484 37.0 363 512 503 .266 3.77 275
92年は5月2日まで:97年は代理監督:「ゲーム差」から右は一年間のチーム成績