ベイスターズ記録あと何?

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MLB記録 タイトル


三浦 大輔



18
名前 みうら だいすけ
生年月日 1973年12月25日
経歴 高田商高−大洋−横浜
入団年 91年ドラフト6位
在籍年 92年−16年
背番号 92年−97年[46]:98年−16年[18]
投打 右投げ右打ち
守備 投手
高校時代
熱狂的な阪神ファンだった父親の影響もあって小学3年から本格的に野球を始めたが、小柄だったため主なポジションはセカンドで投手を始めたのは中学3年からだった。高田商高では1年生からファーストでレギュラーを獲得したが「遊びたい気持ちが爆発」して野球部どころか学校にも通学しなくなってしまった。そんな時にチームメイトや監督が必死に引き留めてくれて野球部に復帰した。

天理
野球部の同級生は5人ほどで強豪チームとは言えず、2年生からエースナンバーを背負ったが2年夏の県大会の開会式では隣に並んだ天理高の屈強な体格に圧倒されて、2回戦で天理高と顔を合わせた際には戦う前から呑まれて初回に浮足立って6失点を喫してしまった。だがその後は立ち直って三浦は12奪三振を奪い、名前負けしていた自分に気付いた。同年の天理高は全国制覇を果たした日本一のチームだったが三浦たちは打倒天理に燃えて3年春には県大会決勝まで進出、3年夏の県大会では2回戦と準決勝で9回一死までノーヒットノーランに抑え、決勝では天理高と対戦し、三浦はドラフト1位で巨人に入団する谷口と投げ合って1対1の投手戦を続けたが、雨天中断明けに決勝点を奪われて惜しくも敗れた。

ハマの番長
まだ弱小野球部だった高2の冬に行われた進路相談で「プロ野球」と答えて爆笑されたが、第二希望、第三希望を聞かれてもプロ野球と答え続けた三浦はドラフト会議で大洋から6位指名を受けて夢を叶えた。高田商高時代は丸坊主で入団会見でも短髪だったが、1年目の秋にはトレードマークのリーゼントスタイルを確立、93年に解雇された山崎 賢一に代わって、2代目番長を襲名した。

遠藤引退試合で初登板
初年度の10月7日の巨人戦で7回表に初登板のマウンドに上がった。同試合は翌年からベイスターズと名称が変わる大洋ホエールズのラストゲームであり、大洋の大エース遠藤の引退試合でもあったため満員の大観衆が詰め掛けていた。三浦は篠塚から三振を奪うなど2イニングをパーフェクトに抑えて見事な初登板を飾った。翌年には高卒2年目にして3勝3敗を記録した。

二段モーション
94年から振りかぶった後に上げた左足を一瞬空中で静止させる独特のフォームに変更した。これは練習の遠投から生まれたもので、三浦がバランスを崩した際に足を上げ下げしたのを見た小谷コーチが「その状態で投げてみろ」とアドバイスし、うまくタメが出来たためそのまま使う事に。打者から見れば非常にタイミングの取りづらい投球フォームから、ときおり人を食ったスローカーブが投げ込むなど徐々に投球スタイルを確立していった。

勝率5割
94年には4月22日に広島戦で初完封勝利を達成、同試合で二死満塁から前田相手にカウント2-3から投じたフォークで空振り三振を奪いピッチングのコツを一つ掴んだ。その直後に肝機能障害で離脱したため同年は2勝2敗に留まったが、翌95年には規定投球回を投げて8勝8敗を記録した。3年連続で勝敗が並んでいたこともあって96年には15勝を目標として掲げて、4月を3勝0敗という好スタートを切り春の珍事と呼ばれたチームの快進撃に貢献したが、体調を崩して5月から7連敗を記録するなど5勝10敗に留まった。

最高勝率
97年はキャンプで足を痛めてリハビリからのスタート。開幕しても6月が終って1勝3敗と全く調子が上がらなかった。だが7月15日に巨人戦初勝利を上げると勢いに乗り、8月20日のヤクルトとの天王山で1失点完投勝利を記録するなど9連勝を達成して10勝3敗で最高勝率に輝いた。同年のオフには背番号を〔46〕から〔18〕に変更。

肝機能障害
98年は開幕から絶好調で8月4日の阪神戦に勝って10勝4敗、目標と語っていた15勝も見えていたが、疲労から肝機能障害を発病して8月25日に登録抹消。チームが優勝争いを演じる中で三浦は入院生活を送ることになった、体重は5キロ落ち、頬はこけていたが三浦は病院を抜け出し、横須賀のグラウンドで黙々と走っていた。一月後に復帰した三浦は10月6日のヤクルト戦でマジック3の呪いを打ち消す好投を見せるなど優勝に貢献した。優勝決定試合ではベンチ入りしていなかったこともあって8回表に進藤が逆転タイムリーを放つとロッカーにダッシュし、リーゼントをセットし、万全の状態で胴上げを味わった。

日本シリーズで大乱調
日本シリーズでは第3戦のマウンドを任されたが2回裏に4四球を出してノーヒットで2点の先制を許すと、3回裏にも無死から連続四球を与えるなど2.1回で6四球という大乱調で4失点で早々にマウンドを降りてしまった。その後もリリーフした福盛、戸叶も四球を重ねてシリーズ記録となる11四球を与えて大敗となった。三浦は第6戦の先発が予定されていたが、この乱調で川村に大役を奪われてしまった。

5年連続Aクラスに貢献
99年は二桁こそ逃したものの1年間ローテを守って9勝10敗を記録。00年と01年には2年連続で11勝6敗を上げるなど、97年間からの5年間で53勝32敗という好成績を残してチームの5年連続Aクラスに大きく貢献した。だが02年からは故障などもあって成績が落ち込むと、チームも3年連続で最下位という苦しいシーズンを送った。

開幕戦
05年4月1日の中日戦。4度目の開幕投手に選ばれた三浦は8回まで中日打線を2安打に抑える素晴らしいピッチングを見せた。だが打線が中日先発の川上の前に零封され、試合は0対0のまま9回裏に入った。三浦は先頭の立浪にスリーベースを許すと二つの敬遠で無死満塁の大ピンチを招いた。そして三浦は打席に入ったアレックスにファールで粘られて、ついに13球目がレフトスタンドに飛び込むサヨナラ満塁ホームランになった。開幕戦でのサヨナラ満塁弾は史上2度目でセリーグ初だった。

追悼試合
05年7月13日広島戦。二日前に親交があったプロレスラーの橋本 真也が40歳の若さで死亡した。登場曲を橋本 真也の爆勝宣言に代えてマウンドに上がった三浦は鬼気迫る迫力で投げ続け、8回表に村田のエラーで招いた唯一のピンチも気迫の投球で切り抜けた。すると0対0で迎えた8回裏に同じく橋本のファンだった鈴木のタイムリーなどで2点を勝ち越し試合を決めた。2安打無四球10奪三振という完璧なピッチングで3年ぶりの完封勝利を飾った三浦はお立ち台で声を震わせながら「勝利を届けられたと思う」と語った。

エース
05年の三浦のピッチングは7月13日を境に一変した。7月13日以前の14試合では3勝7敗だったが、7月13日からシーズン終了までの14試合では9勝2勝。14試合中13試合で3失点以下、12試合で8イニング以上を投げて5完投、防御率に至っては1.89という驚異的な数字を記録した。8月には自身2度目の月間MVPを受賞し、9月20日広島戦では完封で4年ぶりの二桁勝利を達成。そして10月12日広島戦でも2失点完投勝利をあげてチームを4年ぶりのAクラスに導いた。結局三浦は防御率2.52、177奪三振で球団史上二人目となる投手二冠王に輝き、86年の遠藤以来19年ぶりとなる200投球回も達成した。

100勝
06年5月9日楽天戦。通算100勝を目前にして3度足踏みした三浦だったが、この日は初回から先頭バッターの関川を三球三振に切ってとるなど危なげないピッチングで楽天打線を封じ込める。3回裏には自らタイムリーを放って駄目押しとなる5点目を上げ試合を決めた。8回2失点の好投で見事に100勝を飾った三浦はお立ち台で「とりあえず折り返し地点まで来たので、この倍勝てるよう頑張ります」

2試合連続完封
07年は開幕から調子が上がらず5月終了時点で2勝5敗と低迷したが、6月に3勝2敗ながら防御率1.27と持ち前の安定感を取り戻すと、7月7日の広島戦で5安打1四球で完封勝利。続く7月13日のヤクルト戦でも野手が3つのエラーに援護点ゼロと足を引っぱったにも拘らず、三浦は延長10回を不運なヒット2本のみに抑える完璧なピッチングを見せた。すると三浦に代打が出た10回裏にようやく打線が応えて仁志がサヨナラヒットを放って試合を決めた。工藤が先発と思われていた前半最終戦にも中四日で先発し8回零封に抑え込むなど球団記録を更新する35.2回連続無失点という凄まじい成績を残した。

FA残留
08年は故障でチームを離れた事もあってシーズンの折り返しを終えて2勝6敗と苦しんだ。それでも7月28日の中日戦で3失点完投で3勝を上げると、そこから5連勝を記録するなど盛り返したが、7勝10敗で防御率3.56という不本意な成績に終わった。同年のオフにFAを行使すると、阪神がトラキラーの三浦獲得に動き横浜を上回る契約条件を提示した。両親が阪神ファンだった影響もあって子供のころは阪神ファンだった三浦の心は大きく揺れたが、ファン感謝デーでファンの想いを感じ取った三浦は「強いチームを倒したい」と残留を決意した。

遠藤を抜く
09年はまたも開幕戦に敗れてプロ野球ワースト記録の開幕戦7連敗を喫したが、その後は勝ち星を重ねて8月27日の阪神戦では1失点完投で2年ぶりの10勝を上げると共に阪神戦通算40勝を達成。リーグ2位の195.1回を投げて防御率3.32、11勝11敗という好成績を残した。9月21日の阪神戦では1失点完投で勝利投手になって遠藤を抜く通算135勝を記録。三浦は「遠藤さんが引退した日、プロ初登板した試合を思い 出しました」

阪神戦10連勝
98年から阪神戦10連勝を記録するなど対阪神戦で際立って強かったが、それに比例するように巨人にはめっぽう弱く、99年まで通算で1勝9敗、00年に3勝2敗と勝ち越すが翌年からは好投するが勝てないパターンが続いた。

オープン戦で8被本塁打14失点
10年は開幕直前に行われた巨人とのオープン戦で4回を投げて8本塁打を含む14被安打で14失点という大炎上で二軍スタートとなった。4月9日の広島戦で早くも復帰登板を果たし、6回無失点で勝利投手になると、阪神戦、ヤクルト戦と好投を続けたが、4月30日のヤクルト戦では初回に5失点を喫するなど徐々に打ち込まれる試合が目立つようになる。5月21日の日本ハム戦では8回を自責0に抑えてダルビッシュに投げ勝つなど意地を見せたが、続くロッテ戦で移籍した吉見に投げ負けると、そこからシーズン終了まで白星を掴めず、3勝8敗、防御率は7.23という大不振に陥った。

初回KOで登録抹消
11年も5月4日の広島戦で初回に梵の先頭打者本塁打から4連打を集中されて3点を失うと2回表の打席で代打を送られてアクシデント以外では15年ぶりとなる初回KOとなってしまった。翌日に登録抹消となった三浦は大きなショックを受けて一時は引退も考えたというが、妻の「三浦大輔がこのまま終わっていいの?そんな姿は見たくない」という言葉で三浦はもう一度がんばろうと決意した。

415日ぶり白星
三浦は長距離走中心だった調整を見直して、ショートダッシュで徹底的に下半身をいじめ抜いた。これによって130キロ台中盤まで落ち込んでいた球速が140キロ台中盤まで回復して7月9日に一軍昇格。翌日の中日戦で先発すると初回に大島、岩崎、森野から3者連続三振、4回裏に小池のタイムリーで先制を許したが、6イニングで9つの空振り三振を奪うなど「三浦復活」を印象付けた。7回表には三浦の代打稲田が勝ち越打を放って三浦に415日ぶりの白星が記録された。

復活
8月7日の中日戦では白星は付かなかったが7回を4安打、1四球で無失点に抑えて勝利に貢献。続く14日の中日戦では13年前に行われた三浦のトークショーで花束贈呈役に選ばれた黒羽根とバッテリーを組んで7回一死までノーヒットノーランという素晴らしいピッチングを見せた。その後も21日の阪神戦で7回自責1、28日の中日戦で6.2回自責1、9月4日の阪神戦で7回自責0(降雨コールドで完封)と5試合連続で自責1以下を記録。打線の援護に恵まれず白星は伸びなかったが5勝6敗、防御率2.91という好成績を残した。

DeNA初勝利
12年は開幕第3戦に先発して5回まで阪神打線を1安打に抑え込む。6回裏には二死二、三塁という一打逆転のピンチを背負ったが新井貴を内角のストレートで見逃し三振に抑えると、その直後の大量援護を受けて横浜DeNAベイスターズの初勝利を記録。2試合目の登板でヤクルト打線を6安打に抑え込んで1070日ぶりの9回完封を記録すると、続く中日戦は7回3失点で破れたが、4試合目の中日戦で1失点完投勝利、5試合目の阪神戦では9回表に先頭の桧山にツーベースを打たれるまでノーヒット・ノーランという凄まじいピッチングを続けた。

横浜に残って良かったです
6月3日の西武戦に勝って8試合目の登板で早くも6勝目を記録して通算149勝とすると、そこから3試合は白星を逃したが、7月4日に10連敗中だった巨人戦に先発すると3回表に3点こそ失ったが1点をリードした7回表の一死三塁というピンチでは長野を空振り三振に抑えると、続く古城もこの日最速の144キロのストレートで空振り三振に切って取って実に2507日ぶりの巨人からの白星で球団史上3人目の150勝を達成した。ハマスタのお立ち台に上がった三浦はインタビューの最後に「横浜に残ってよかったです」と答えて大歓声を浴びた。

二桁勝利ならず
7月17日のヤクルト戦では4年ぶりの無四球完投を記録して球宴前に8勝を記録。最多勝や自身が目標に上げていた15勝も夢ではなかったが、後半戦に入ると素晴らしいピッチングを見せていた8月5日の巨人戦で完全にアウトのタイミングの内野ゴロを一塁塁審がイニングに2回誤審して先取点を失い敗戦投手になってしまうなど好投を見せながら勝てない試合が続き、後半戦は11回の先発で平均7.1イニングを投げて防御率3.04と試合を作りながらわずか1勝という不運にあって3年ぶりの二桁勝利にも届かなかった。

9勝
13年は開幕第2戦で先発して7回2失点で勝利投手。5月20日のオリックス戦では9回裏に1点を失って完封こそ逃したが8.1回を4安打、無四球に抑える好投を見せると、そこから7試合連続で7イニング以上と状態を上げ、6月12日のロッテ戦では小山の39歳1カ月を超えて球団最年長となる39歳5ヶ月での完封勝利、6月30日の中日戦では2失点で9回を投げ抜くと9回裏に中村がサヨナラヒットを放って三浦の好投に応えた。順調に白星を重ねたが同年もシーズン終盤に援護が貰えなくなり、シーズン最終登板となった10月5日の中日戦では9回を投げて3失点(自責0)と二桁勝利への執念を見せたが勝ち負けなしとなって2年連続で9勝に留まってしまった。

5本塁打
兼任コーチを任された14年はオープン戦から状態が上がらず、初登板となった4月4日の広島戦では7回1失点に抑えたが、11日のヤクルト戦では5回5失点、続く広島戦では球団ワーストに並ぶ5本塁打を喫して3年ぶりの二軍降格となった。6月上旬に昇格したが14日のソフトバンク戦で4回4失点でKOされるなど2試合の登板で再び登録抹消。0勝4敗で防御率5.46と限界説も流れ始めていたが、7月13日に再昇格を果たすと同日のヤクルト戦で5回1失点(自責0)に抑えて22年連続勝利を達成。続くヤクルト戦では148球を投げ抜いて8回1失点に抑えると、打ってもあわやライトゴロのライト前ヒットで22年連続ヒットを記録した。

月間MVP
8月に入ると横浜スタジアムで行われた7日の巨人戦で8回まで粘投でゼロを並べると、9回表に阿部のソロで完封こそ逃したが9回を投げ抜いて13年ぶりの巨人戦完投勝利。マウンドでこぶしを突き上げた三浦はお立ち台で「ここに帰ってこられて良かった」と感慨に浸った。続く中日戦では前日に筒香が梶谷と激突して救急車で病院へ搬送された影響もあってか守備陣が落球を連発してしまったが、三浦は7回を4安打(実質2安打)、無失点に抑えてチームを救った。続く広島戦でも中畑監督が「これぞ三浦」と絶賛する内容で7回を無失点に抑えて5連勝を記録。7年ぶりの月間MVPにも選出された。また同月には三浦がステーキをおごった選手が活躍する珍現象が起こり、選手たちは「ミウラ・ミート・パワー」と声をそろえた。

23年連続勝利で首位
15年は上々のスタートを切ったチームに5月5日に合流し、同日のヤクルト戦で守備に足を引っ張られながらも6回3失点に抑えて史上1位タイとなる23年連続勝利を達成。チームを首位に浮上させると続くヤクルト戦では8回を4安打、2四球とほぼ完璧に抑えて連勝、さらに続くオリックス戦では7回2失点に抑えて筒香故障で揺らぎ始めていたチームを救う価値ある白星で自身19年ぶりの開幕3連勝を記録した。

柳田に特大ソロを被弾
続くソフトバンク戦では柳田にバックスクリーンを破壊される特大のソロを被弾しながらも圧倒的な破壊力を見せるホークス打線を7回2失点に抑え、柳田も続く打席で見逃し三振に仕留める意地を見せた。続く楽天戦でも6回3失点と試合を作ったが、2度の雨天中止で中17日での登板となった阪神戦で5回3失点、続く阪神戦ではらしくなく8番鶴岡、9番藤浪への四球から崩れて5失点と調子を落としてしまう。続くヤクルト戦は6回無失点に抑えてヤクルト戦3連勝を飾ったが、球宴明けのヤクルト戦では5回11安打と打ち込まれて6失点、8月12日の巨人戦では連続四球からの満塁被弾を喫するなど首位から最下位に転げ落ちるチームを止める事ができなかった。

球界最年長
15年オフに三浦より年長だった8選手が揃って現役を引退したため球界最年長選手となった16年はキャンプで肝障害を発症し、前年の高橋尚引退試合で胴上げでバランスを崩した高橋尚の下敷きになって首を痛めた事に由来する左半身のしびれに苦しむなど厳しいシーズンとなった。そんな中でも一軍に帯同しコーチ業を行いながら、定期的に二軍で登板して調整に努めたが、若手投手陣が大きく力をつけてローテーションを守り続けたためなかなか1軍登板のチャンスは巡ってこなかった。

ギネス記録も
オールスター前9連戦でようやくチャンスを貰って大歓声に送られて横浜スタジアムのマウンドに上がったが、大島にロペスのグラブをはじくライト線へのツーベース、堂上にはバスターでシフトの逆を突かれてライト前、ビシエドにはしぶとく一二塁間を抜かれてライト前と不運な形で立ち上がると、森野、福田と連打を繋がれて失点が重なり、エルナンデスが打ち上げた外野フライかと思われた飛球が強風に乗ってレフトスタンドに飛び込むスリーランとなって初回6失点…。2回からは立ち直ってゼロを並べて、2回裏の打席ではギネス記録となる投手による24年連続安打を記録したが4回被安打11、1四球、6失点でマウンドを降り登録抹消となった。

決断
「次、やりかえす」という言葉を残して次回登板への調整を続けたが、一軍が9勝15敗と苦戦した8月になっても再昇格の声がかからなかった事で引き際を感じて現役引退を決断した。最後の真剣勝負のチャンスを掴むために臨んだ9月3日のイースタンリーグのヤクルト戦では4回までに7奪三振を奪い内野安打1本に抑える好投を見せて横須賀スタジアムに集まったファンを沸かせると、終盤になっても球速が落ちず7回2失点に抑えて一軍昇格を勝ち取り、試合後に球場に呼んでいた子供たちと球団社長に引退を伝えた。

CS進出の日に
甲子園球場に駆け付けた両親にもチームメイトにも引退を伝えないまま臨んだ9月16日の阪神戦では初回に福留のツーランで逆転を許すと、2回裏からは粘り強く試合を作ったが、チームが初のCS進出を目前にしていた事もあって、5回裏に不運なヒットで一死二、三塁というピンチを背負った所で非情の降板となり、試合後に正式に球団社長、GM、監督に現役引退を伝えた。引退発表は9月20日に決定したが、奇しくもその前日に球団史上初のCS進出が決定したため、歓喜に沸く横浜スタジアムの試合後にチームメイトに引退を告げることになった。

引退会見
翌日の30分に渡った引退会見では落ち着いて質問に答えていたが、ファンへのメッセージを求められると「今年だけではなく、もっと前に引退かな、もう辞めないといけないのかなと思うときがいっぱいありましたけど、ダメかなと思って2軍で1軍の試合のテレビを見ていると…」と言葉に詰まり、必死に堪えてきた涙を目に溜めながら「18番のユニホームを着てスタンドで応援している姿をテレビで見たら、絶対にあのマウンドに戻るんだって頑張ってこれました。それだけ三浦大輔に力を与えてくれましたし、応援があったから、これまでやってこれたと思います」とファンへの感謝を口にした。

永遠番長
引退発表後は横浜スタジアム周辺だけではなく、街中が「永遠番長」と銘打たれた大小のポスターで三浦一色となり、雨天中止によって振り替えとなった引退試合のチケットを求める長蛇の列は果てなく伸びて最後のチケット購入者は販売開始から12時間以上が経過した26時にもなった。また背番号18は引き継ぐにふさわしい選手が出てくるまで欠番とし、最終的には球団と三浦が協議の上で継承する半永久欠番の「横浜ナンバー」となった。引退試合となった9月29日のヤクルト戦では選手全員が背番号18を身につけ、スタンドには大洋、横浜、DeNAという3つの時代を表す3つの18が人文字で形作られるなど試合前から三浦への敬意を示した。

引退試合
シーズン最終戦で大きな三浦コールに送られて最後のマウンドへ上がると、初回に無死一、三塁から山田のピッチャーゴロ併殺の間に先取点を奪われたが、続くバレンティンはアウトローのストレートでらしい見逃し三振に切って取る。その裏に梶谷のソロで追いつくと、2回表には廣岡の初本塁打などで3点を勝ち越されたが、その裏に二死走者なしから三浦がセンター前ヒットで出塁すると打線が繋がって一挙5点を上げて大逆転!スタンドは歓喜と涙が入り混じる熱狂状態となった。だが真剣勝負を望んだ三浦に対してベストメンバーで応えたヤクルト打線は4回表に川端のタイムリーなどで3点を上げて再逆転、4回表が終了時点で6対7という大熱戦となった。

粋な計らい
この頃になると三浦がセットポジションに入るまでの数秒間にも大きな歓声が上がるようになり、5回表になると終わりが近づきつつある事を感じた多くのファンが涙を流した。裏の攻撃で三浦に打順が回ってくるためラストイニングと思われた6回表には二死満塁から山田に左中間を抜かれてついに10失点、続く鵜久森をセカンドフライに打ち取るとスタンドからは大きな歓声が上がり、三浦も帽子をとって応えたが、ベンチに戻ると裏の打席に立ち、もう一人だけ投げて降板という意向を告げられた。15年ぶりの勝率5割がかかった一戦を自分のために捧げてくれたチームの思いに三浦は涙を流しながら打席に立つと、7回表に最後の打者となった雄平を空振り三振に切って取って25年の戦いにピリオドを打った。外野手を含めたナインが集まって三浦をねぎらうと、その後に三浦1人だけをマウンドに残して最後の時間を作ったのちに、万雷の拍手に送られてマウンドを降りた。

ずっと
試合後のセレモニーでは優しい人間性そのままに何度も感謝を口にし、自身の初登板試合でもある遠藤の引退試合を見て「自分も将来、こういう引退セレモニーをしてもらえる選手になりたい」と感じたことや、「『ベイスターズ、いいチームになっただろ』とみんなに自慢できます」と願い続けたチームの変化に喜びを表したのちに「今シーズンをもちまして現役を引退いたしますけれども、これからも三浦大輔はずっと横浜です!ヨ・ロ・シ・ク!」と締めくくった。

ハマの番長
清原が番長と呼ばれていたことからハマの番長と呼ばれたが、この愛称はFA残留から特別な意味を持つようになった。主力選手たちが次々にチームを離れ、チームは出口の見えないトンネルに入り込んでいる中で横浜の三浦でいることを選び、多くのファンをチームにつなぎとめた。04年から開始した子供へのグローブプレゼントは約4800個にまで登り、転売に嫌気がさしてサインを拒否する選手もいる中で「三浦のサインなんて価値がない」と言われるくらいサインを書きまくろうと数万枚のサインを書き続けた。

監督就任も
現役引退後は解説者を経て19年から投手コーチで横浜に復帰、20年の2軍監督を挟んで21年から1軍監督に就任した。キャンプ、オープン戦から走塁や小技を重視したオールドスタイルの采配を見せるなど、ラミレス前監督との違いを鮮明にしたがペナントレースの幕が上がると2引き分けを挟んで6連敗という悲劇的なスタートを切った。開幕第6戦では絶不調の石田にこだわって11対7から追いつかれて引き分けに終わると、翌日の広島戦では5番宮崎の併殺でイニングを終えると、次の回が6番から始めるにもかかわらず6番に投手、9番に内野手というダブルスイッチを行い、明らかに誤ったタイミングでのバント指示などの采配ミスを連発、就任当初から優しい性格に加えて頭脳派という印象もなかった事から監督向きではないとの声も上がっていたため多くの非難を集めた。

史上ワーストからの変化
開幕からの連敗を6で止めたが5日後に10連敗がスタート、開幕24試合が経過した時点ではプロ野球史上ワーストタイの3勝というどん底に沈んだ。10連敗で止めた4月23日の阪神戦では柴田と大和が交錯して担架が出たが、ベンチに留まって選手の元に駆け付けなかった事が優しい監督というポジティブなイメージも失うことになった。だが低迷の一因ともなっていたコロナウイルスの影響で来日が遅れていた外国人選手がチームに合流すると、外国人選手たちがスピーチや激走などでチームを鼓舞、三浦監督にも同時期に前向きな変化が始まり状況を無視したバントが激減し、コーチ陣に遠慮をしていた選手との直接対話も開始、打順も柔軟に入れ替え始めるなど短期間に劇的な変化を遂げて交流戦は3位に付けるなど5月以降は5割近い成績を残した。


初記録
初登板 92年10月7日巨:7回から
初勝利 93年9月4日広:完投勝利
初奪三振 92年10月7日巨:篠塚から
初完投 93年9月4日広:初勝利
初セーブ
記録達成日
100勝 06年5月9日楽天戦
150勝 12年7月4日巨人戦
1000奪三振 02年6月6日ヤ:坂元から:109人目
2000奪三振 09年10月3日中:堂上剛から:19人目

記録達成日
2000投球回 07年3月30日巨人戦
3000投球回 13年7月24日中日戦



その他の記録
月間MVP 00年8月:05年8月:07年7月:14年8月
毎回奪三振 97年8月5日神:5回コールドで
対阪神10連勝 97年−00年




92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16
最優秀防御率 1回
最多奪三振 1回
最高勝率 1回
オールスター 6回


  投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
92 大洋 1 0 0 0 0 0 2.0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0.00
93 横浜 15 1 0 3 3 0 60.1 60 4 21 2 61 2 0 23 23 3.43
94 横浜 17 1 1 2 2 0 47.2 61 2 25 0 35 2 1 27 23 4.34
95 横浜 25 3 0 8 8 0 147.2 131 17 52 4 107 5 0 66 64 3.90
96 横浜 34 4 0 5 10 0 131.1 151 17 55 1 101 0 0 82 72 4.93
97 横浜 26 4 1 10 3 0 142.1 113 9 51 3 129 4 1 54 53 3.35
98 横浜 25 2 1 12 7 0 158.2 138 12 60 3 119 4 0 64 56 3.18
99 横浜 30 4 3 9 10 0 175.0 174 22 51 2 130 2 0 92 83 4.27
00 横浜 24 4 0 11 6 0 164.2 154 22 32 3 122 3 0 64 59 3.22
01 横浜 26 5 2 11 6 0 168.2 137 14 53 2 135 1 0 56 54 2.88
02 横浜 19 4 2 4 10 0 119.2 108 12 28 2 100 1 0 46 43 3.23
03 横浜 15 1 0 5 5 0 101.1 94 18 21 5 82 1 0 48 46 4.09
04 横浜 22 1 0 6 8 0 144.0 158 17 33 5 135 7 0 69 68 4.25
05 横浜 28 10 2 12 9 0 214.2 168 20 52 4 177 4 0 68 60 2.52
06 横浜 30 9 3 8 12 0 216.2 227 19 44 5 160 3 0 94 83 3.45
07 横浜 28 4 3 11 13 0 185.1 184 15 51 7 159 5 0 74 63 3.06
08 横浜 21 4 1 7 10 0 144.0 137 22 29 4 111 4 0 63 57 3.56
09 横浜 28 6 1 11 11 0 195.1 175 28 37 4 138 2 0 82 72 3.32
10 横浜 16 0 0 3 8 0 79.2 108 12 23 4 58 2 0 67 64 7.23
11 横浜 18 2 1 5 6 0 111.1 96 9 31 7 74 1 0 39 36 2.91
12 横浜 25 6 1 9 9 0 182.2 160 15 48 3 107 4 0 61 58 2.86
13 横浜 27 2 1 9 13 0 175.2 181 26 33 1 109 5 0 88 77 3.94
14 横浜 15 1 0 5 6 0 94.2 99 14 23 4 55 3 0 38 32 3.04
15 横浜 17 0 0 6 6 0 98.0 103 9 25 1 62 5 0 47 45 4.13
16 横浜 3 0 0 0 3 0 14.2 29 3 4 0 14 0 0 18 18 11.05
通算 25年 535 78 23 172 184 0 3276.0 3146 358 882 76 2481 70 2 1430 1309 3.60


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
92 大洋 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
93 横浜 18 15 0 1 0 0 0 1 0 0 0 3 0 0 0 6 0 0 .067
94 横浜 22 10 1 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 1 0 3 1 1 .100
95 横浜 27 46 2 6 0 0 0 6 3 0 0 6 1 1 0 22 1 1 .130
96 横浜 35 34 1 6 2 0 0 8 7 0 0 6 0 3 0 14 0 1 .176
97 横浜 39 45 7 9 2 0 0 11 3 0 0 7 0 2 0 15 2 0 .200
98 横浜 27 56 1 3 0 0 0 3 1 0 0 1 0 0 0 20 0 0 .054
99 横浜 35 56 4 5 3 0 1 11 5 0 0 8 0 4 0 24 2 0 .089
00 横浜 25 53 3 5 0 0 0 5 1 0 0 5 0 2 0 21 2 1 .094
01 横浜 27 58 1 7 1 0 0 8 4 0 0 8 0 0 0 22 1 1 .121
02 横浜 19 36 0 2 0 0 0 2 1 0 0 4 0 0 0 18 0 1 .056
03 横浜 15 34 3 6 0 0 0 6 3 0 0 2 0 2 0 18 0 0 .176
04 横浜 22 50 0 5 2 0 0 7 0 0 0 4 0 1 0 20 0 0 .100
05 横浜 28 57 2 9 1 0 0 10 1 0 0 9 0 0 0 19 1 1 .158
06 横浜 30 53 2 6 0 1 0 8 2 0 0 3 0 1 0 10 0 0 .113
07 横浜 30 55 2 5 5 0 0 10 3 0 0 6 0 0 0 18 1 1 .091
08 横浜 21 37 4 8 1 0 0 9 1 0 0 10 0 2 0 15 0 0 .216
09 横浜 29 56 3 10 1 1 0 13 4 0 0 7 1 1 0 20 1 0 .179
10 横浜 16 13 1 2 1 0 0 3 0 0 0 5 0 0 0 4 0 0 .154
11 横浜 18 35 0 3 0 0 0 3 0 0 0 5 0 0 0 14 0 1 .086
12 横浜 25 54 2 8 0 0 0 8 3 0 0 3 0 1 0 16 1 0 .148
13 横浜 27 49 0 7 2 0 0 9 2 0 0 4 0 0 0 20 1 0 .143
14 横浜 15 31 1 3 0 0 0 3 0 0 0 2 0 0 0 15 1 0 .097
15 横浜 17 28 0 4 1 0 0 5 0 0 0 3 0 0 0 7 0 0 .143
16 横浜 3 6 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 .000
通算 25年 571 967 41 123 22 2 1 152 44 0 0 112 2 21 0 363 15 9 .127


  日本シリーズ投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
98 横浜 1 0 0 0 1 0 2.1 2 0 6 0 2 0 0 4 2 7.71
通算 1年 1 0 0 0 1 0 2.1 2 0 6 0 2 0 0 4 2 7.71


  日本シリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
98 横浜 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 1年 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000


  オールスター投球成績
回数 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
通算 6回 6 0 0 1 2 0 12.2 11 2 0 1 10 0 0 5 5 3.55


  二軍投球成績
チーム 登板 完投 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四死 三振 失点 自責 防御率
92 大洋 21 0 6 6 0 74.0 81 12 30 53 47 43 5.23
93 横浜 12 2 2 7 0 75.2 86 11 30 47 48 42 5.00
94 横浜 2 0 1 0 0 8.0 5 0 2 6 2 2 2.25
95 横浜 3 1 1 0 0 16.0 12 1 8 11 3 3 1.69
96 横浜 1 0 0 0 0 2.0 2 0 2 2 0 0 0.00
97 横浜 1 0 0 1 0 7.0 7 1 1 7 2 2 2.57
98 横浜 2 0 0 0 0 6.0 6 0 1 4 1 1 1.50
02 湘南 3 0 0 1 0 11.0 5 0 0 13 3 2 1.64
03 湘南 5 0 1 1 0 20.0 18 1 3 20 8 7 3.15
08 湘南 3 0 1 0 0 14.0 15 0 3 12 3 3 1.93
10 湘南 6 0 2 2 0 27.0 38 0 7 21 14 14 4.67
11 横浜 10 0 1 1 0 34.0 30 0 10 31 12 11 2.91
14 横浜 6 0 2 2 0 26.0 29 1 7 30 12 11 3.81
15 横浜 3 0 0 3 0 17.0 20 2 6 8 10 9 4.76
16 横浜 16 0 2 9 0 89.0 116 8 20 53 59 55 5.56
通算 15年 94 3 19 32 0 426.2 870 37 130 318 224 204 4.30


  オリンピック投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
04 日本 3 0 0 0 1 0 3.0 4 0 1 0 3 0 0 3 3 9.00
通算 1年 3 0 0 0 1 0 3.0 4 0 1 0 3 0 0 3 3 9.00


  監督成績
チーム 順位 勝利 敗戦 分け 勝率 ゲーム差 本塁 被本 盗塁 犠打 打率 防御率 失策
21 横浜 6 54 73 16 .425 20.0 136 124 31 81 .258 4.15 73
22 横浜 2 73 68 2 .518 8.0 117 123 49 102 .251 3.48 64
23 横浜 3 74 66 3 .529 12.0 105 118 33 106 .247 3.16 69
通算 3年 6 201 207 21 .493 40.0 358 365 113 289 .252 3.60 206