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斎藤 隆



11
名前 さいとう たかし
生年月日 1970年2月14日
経歴 東北高校−東北福祉大−大洋−横浜−ドジャース−レッドソックス−ブレーブス−ブルワーズ−ダイヤモンドバックス−楽天
入団年 91年ドラフト1位
在籍年 92年−05年
背番号 92年−05年[11]
投打 右投げ左打ち
守備 投手
リトルリーグ
3人兄弟の末っ子として生まれ、物心がついたころから兄の練習を手伝って野球に触れ合って、父親が監督をしていた少年野球チームに所属した。6年の時に東京から来た転校生に誘われてリトルリーグに転向。大阪の万博球場で行なわれた全国大会にも出場した。2人の兄と同様に東北高校へ進学、3年夏には5番ファーストとして甲子園に出場したが2回戦で芝草にノーヒットノーランを達成された。

投手転向
甲子園後に建設業を営んでいた実家のバイトで東北福祉大学の新校舎建設にかかわっていたが、現場で父親から呼ばれて野球部部長に引き合わされて、東北福祉大へ入れてもらえることが決まったと告げられた。当時の東北福祉大は2学年上の佐々木、大塚、1学年上の矢野、同学年には金本、浜名という後にプロでも活躍する名選手がそろっており、なかなかベンチ入りは果たせなかった。転機になったのはのは2年の秋、ブルペンで遊びで投げていたら、それが監督の目にとまって次の試合で代打で起用される際に「この打席でヒットを打てなかったらピッチャーになれ」と言われた打席で併殺打に倒れて投手に転向した。

::
投手転向から間もなく素質は一気に開花して大学通算15勝3敗、防御率1.42という素晴らしい数字を残した。4年生時には全日本大学選手権で日本一に輝き、日米大学野球も経験し、91年ドラフト会議で大洋、中日の1位指名を受けて交渉権を獲得した大洋ホエールズに入団した。

初勝利から巨人戦で5連勝
初年度こそ怪我で棒に振ったものの、2年目には4月29日の巨人戦で4安打に抑えて1失点完投で初勝利を記録すると、その後も8月5日の巨人戦でも8回を3安打1失点に抑えるなど五ヶ月連続で巨人戦で白星を記録。8月11日の広島戦までに8勝5敗を記録したがその後5連敗を喫して二桁勝利はならなかった。

一桁勝利
3年目も9勝12敗、4年目8勝9敗と結果を残したが、なかなか10勝の壁を破ることが出来ず、しかも3年連続で負け越しと信頼感は今ひとつだった。投手としての経験不足からか、素晴らしいピッチングをしていながら、一度リズムを崩すと立て直すことが出来ず一気に大量失点をすることが多かった。

ノーヒットノーラン目前で
95年4月26日のヤクルト戦では5者連続奪三振を奪うなど絶好調で7回が終わってノーヒットノラン。だが横浜打線も吉井に2安打に抑え込まれて無得点と息詰まる投手戦が続いていた。そして8回も一死となり土橋が打ち上げた何でもない打球がフラフラと風に乗って狭い神宮球場のレフトポールに鈍い音を立ててぶつかった。四球で出ていたランナーと土橋がホームに還って2失点。斎藤は1安打完投で敗戦投手になった。

初の10勝と最多奪三振
96年は4月に月間MVPを獲得するなど開幕から好調をキープして8月下旬には9勝目を記録した。だが9月3日の巨人戦では9回3失点と好投しながらもサヨナラ負けを喫すると、10日の中日戦では8回2失点で勝ち負けなし(チームはサヨナラ負け)、17日の巨人戦では4回途中5失点KOとまたも二桁勝てないのではないか、そんなムードが広がっていた。だがチームが斎藤を救った。23日の中日戦で打線が14得点と爆発、斎藤も完投し初の10勝に花を添えた。この年斎藤は206奪三振を記録して2位に大差をつけて最多奪三振王に輝いた。

25打数7本塁打
同96年には巨人の松井秀を25打数7安打に抑えたが、打たれた7安打が全て本塁打という怪記録を作り、31被弾で初の被本塁打王を獲得。

横浜2位
97年の開幕投手も内定していた斎藤に悪夢が襲い掛かる。キャンプ中に右肘に遊離軟骨(ネズミ)が発見されて斎藤は手術を受けることを選択。オールスター明けには戻ってこられると言われていたが7月下旬にファームで復帰するも、なかなか本来の体調には戻らず、首位ヤクルトと優勝争いをするチームには最後まで加われなかった。

復帰登板
98年4月5日、開幕3試合目の阪神戦は9回終わって1対1の同点、好投の野村に変わって斎藤が554日ぶりのマウンドに向かった。大歓声に後押しされた斎藤は2回を投げ、2奪三振で無失点の好投で、復帰初登板にしてお立ち台にあがった。「あの歓声を聞いたら感激で鳥肌がたちましたよ、マウンドへは一生懸命、涙をこらえて行きました」

復帰後初勝利
4月12日の巨人戦では4回を投げて5奪三振、被安打1の完璧なピッチングでプロ初セーブを記録。29日の広島戦では2回無失点で、ついに583日ぶりに勝利投手に、この日のウイニングボールは手術執刀医からもらった遊離骨と一緒に、自宅に大切にしまっているそうだ。

優勝決定試合で先発
斎藤は5月31日中日戦で609日ぶりに先発マウンドに立つと、6月17日阪神戦で先発勝利。9月15日巨人戦では722日ぶりの完投勝利で自己タイの10勝目をあげた。そして勝てば優勝が決まる10月8日阪神戦で先発を任されると3失点は喫したが、7回裏の一死三塁を無失点で切り抜けてチームの逆転勝利に繋げた。

日本シリーズ
終盤5連勝と絶好調のままシーズンを終えると、日本シリーズでも第2戦で自らのエラーなどで招いた初回の無死一、三塁というピンチを松井稼をショートフライ、鈴木健をサードゴロ併殺で無失点で抑えると、2回表二死から16者連続凡退と付け入る隙のない完璧なピッチングで3安打完封勝利。連敗で向かえた第5戦では7回を2失点に抑えて2勝目をあげて、日本シリーズで2度のお立ち台という大活躍で見事に優秀選手賞に輝いた。

ストッパー
98年13勝5敗1S、99年14勝3敗と、素晴らしい数字を残した斎藤だったが、00年6勝10敗と大きく数字を落とした。01年に監督に就任した森監督は斎藤にストッパー転向を進めた。斎藤は「無理です」と断ったが、森監督の「おまえと心中する覚悟は出来ている」、という言葉でストッパー転向を引き受けた。不思議なもので高校、大学の先輩である佐々木の後をここでも追うことになってしまった。

一球
開幕して間もない4月13日巨人戦、投手陣が8回を終わって1失点と踏ん張って9回表に完封目前の上原から中根が同点弾を放ち、鈴木が勝ち越しタイムリーと理想的な逆転劇で向かえた9回裏。マウンドに上がった新ストッパー斎藤は簡単に二死を取ったが、仁志にレフトスタンドに飛び込む同点弾を浴び、まさかリリーフ失敗。チームも延長戦の末に破れ、翌日も2試合連続サヨナラ負けという辛い結果になった。しかしこれで一球の怖さを知ったのか斎藤はこの年50試合に登板し、7勝1敗27セーブ、防御率1.67という驚異的な成績を残した。

メジャー挑戦
02年オフ、斎藤はFAでのメジャー移籍を目指した。だがメジャーリーグでは年俸を抑えようとする制度、いわゆる「ぜいたく税」が導入されたため、斎藤に提示された金額は非常に低いものだった。斎藤は初めて佐々木の後を追わずに横浜残留を決めた。

限界?
斎藤は01年にストッパーに転向してからは、2年間で8勝3敗47セーブという素晴らしい成績を残していたが、03年から先発への再転向を決意した。だが同年を6勝7敗という今ひとつの成績で終えると、翌04年は2勝5敗で防御率7.71と無残な結果に終わり限界がささやかれるようになった。

トレード?
05年は4月2日中日戦で勝ち投手の権利まであと一人で非情の交代を命じられるなど、白星をあげれないまま5月7日に登録抹消となった。同時期には年棒の半分を横浜が負担して、楽天へトレードされるのではといった報道が飛び出すほど斎藤は後がない状況に追い込まれていた。

一軍復帰
イースタンリーグで6月25日の巨人戦、7月2日の日本ハム戦と2試合連続で7回無失点の好投を見せた斎藤は、7月5日に一軍昇格を果たす。7月14日広島戦では先発復帰を果たし、6回4失点ながら8奪三振と持ち味を見せて勝ち投手の権利を持ったままマウンドを降りた。だが試合こそ金城のサヨナラホームランで勝ったものの、中継ぎが打たれて斎藤の1年3月ぶりの白星はならなかった。

復活
05年7月20日前半戦の最終戦となった首位阪神戦。先発した斎藤は非の打ち所のないピッチングを見せて阪神打線に二塁すら踏ませない。開幕した頃は140キロそこそこだったストレートは、150キロ近い全盛期を思わせる威力を見せ、不安定だったコントロールも別人を思わせるほど四隅に集った。8回裏には二死二塁と初めてピンチを招いたが、代打片岡をフルカウントから内角低めの完璧なコースのストレートで見逃し三振に切って取り、9回の一死一、二塁も金本、今岡を打ち取って9回を3安打無失点で抑えて完全復活をアピールした。だが打線が斎藤に答えられず0対0のまま延長戦に入ったため斎藤の白星はまたもお預けとなった。

476日ぶり
8月6日中日戦、8月13日ヤクルト戦と勝ち投手の権利を持ってマウンドを降りながら、リリーフが打たれて白星を逃すなど白星がつかなかった。8月19日中日戦でも無失点ピンチングを続けたが、打線がマルティネスに7回までわずか2安打に抑えられてチャンスすら作れない。0対0のまま迎えた8回表にようやく二死二、三塁のチャンスを作ったが打順は斎藤に回ってきた。代打が考えられる場面だったが牛島監督は斎藤をそのまま打席にに送った。斎藤は三振に倒れてチャンスは潰したが、「次の回は絶対に抑えようと思った」という斎藤が8回裏を3者凡退に抑えると、9回表に佐伯がタイムリーを放って斎藤に476日ぶりの白星が記録された。

MLB挑戦
06年には36歳にしてMLB挑戦を決めてドジャースとマイナー契約を交わした。開幕はマイナーで迎えたが、開幕直後にDL入りしたクローザーのガニエに代わってメジャー昇格を果たした。当初は敗戦処理での登板が続いたが8試合連続で無失点という好投が認められて徐々にステップ・アップ。5月15日のロッキーズ戦では、5対3とリードした8回裏を三者凡退に抑えると、9回裏も続投してMLB初セーブ。すると5月20日から7月2日まで15試合連続無失点という素晴らしいピッチングを見せてクローザーの座を手にした。

首位攻防
06年9月18日。前日にナ・リーグ西地区首位の座をパドレスに譲り渡したドジャースにとって負けられない地元での首位攻防戦。斎藤は1点を追う9回表に登板したが、3安打に暴投などもあって致命的な3点を失ってしまった。斎藤は「この大切な時の1球が悔しくて」とベンチで沈み込んだ。だがその裏にドジャース打線はMLB史上4回目の4者連続ホームランという離れ業で同点に追いつくと、1点リードされて迎えた延長10回裏にガルシアパーラの逆転サヨナラツーランで奇跡的な首位奪取を果たした。斎藤は「皆が援護してくれた…」と涙をこらえきれずタオルで顔を覆った。

胴上げ投手
プレーオフへのマジックを"1"として迎えた9月30日のジャイアンツ戦。試合はグレッグ・マダッグスの好投などで4対2とリードしたまま9回裏に入った。クローザとしてマウンドに上がった斎藤は、先頭のトッド・リンデンを見逃し三振に仕留めると、続くオマー・ビスケルはライトフライ。そして最後はランス・ニークロを変化球で三球三振に切って取り、2年ぶりのプレーオフを決めた。胴上げ投手となった斎藤の元に選手たちが次々と突進した。「こんな騒ぎになるとは想像していなかった」という斎藤はあっという間に弾き飛ばされた。

夢を見ているよう
マイナー降格で開幕戦を家族と共にスタンドから見守った斎藤が最後は胴上げ投手になった。斎藤は「いろいろありましたから、まだ夢を見ているよう」と声を詰まらせた。初年度の成績は72試合に登板し、6勝2敗24セーブ、78.1投球回を投げわずか23四球。奪三振は救援でMLBトップの107K、奪三振率12.29で被安打率は.177という驚異の成績を残した。コレッティGMは「こんなに活躍してくれるとは、彼がいなければ我々は何もできなかった」と最大の賛辞を贈った。

オールスター
07年は開幕から抜群の安定感を見せて前半戦を無敗のまま終えて初のオールスターゲームにも選出された。9月19日のロッキーズ戦で逆転サヨナラツーランを浴びて初の敗戦を記録したが、2勝1敗39セーブ、63試合に登板して、被安打33、与四球13で防御率1.40、被安打率.151という凄まじい成績を残した。シーズン途中にはE・ガニエの持つMLBデビュー以来48のセーブ機会で44救援成功を上回る45回成功というMLB新記録も樹立。統計会社による調査ではリーグの救援投手NO1の評価を受けて、サイヤング賞候補にまで名前が上がった。

ドジャース退団
08年も45試合に登板して防御率2.49という好成績を残したがシーズン終盤に怪我をした事もあってドジャースを退団してレッドソックスに入団。ボストンでも56試合に登板して防御率2.43を記録すると、翌10年はブレーブスに移籍し、56試合に登板して防御率2.83という好成績を残したが、シーズン終盤に右肩痛で離脱し、プレーオフでは投げる事ができなかった。

プレーオフで好投
11年はブルワーズに移籍したが開幕直後に左太ももを痛めてリタイア。マイナーでの調整を経て4月下旬に復帰予定だったが昇格直前に左脇腹の筋肉を損傷。度重なる故障に引退も囁かれたが、同年の3月に故郷仙台を襲った東日本大震災の被災者から届く励ましの声に支えられてリハビリを続けた。7月2日にMLB復帰を果たすと、同日のツインズ戦で8回裏にに登板して三者凡退に抑えると、9回表に逆転して斎藤に白星が記録された。同年にはMLB通算300登板となった7月20日のダイヤモンドバックス戦で2勝目を記録するなど30試合の登板ながら4勝2敗、防御率2.03を記録して地区優勝に貢献。プレーオフでも6試合に登板して失点0を記録した。

日本復帰
12年はダイヤモンドバックスと契約したが故障でわずか16試合登板に終わり、同年のオフに東北楽天への入団が発表された。右ふくらはぎ痛で開幕は二軍で迎えたが、5月3日に一軍へ昇格すると、6日のオリックス戦で3対3の同点で迎えた8回表に8年ぶりの復帰登板。少年時代に自転車で通った宮城球場のマウンドに斎藤が上がると球場は大歓声に包まれた。斎藤は2四球などで二死満塁のピンチを招くとショートの松井稼に「どうしても力が抜けない」と打ち明けるほど緊張感に包まれていたが、何とか後続を抑えて無失点で切り抜けると、その裏に松井稼のグランドスラムなどで勝ち越して、斎藤は復帰戦で2768日ぶりの勝利投手になった。

東北の日本一に貢献
5月15日には2785日ぶりに古巣ハマスタで凱旋登板。もちろん初対戦となる横浜戦で1イニングを投げて1点を失ったが球場中のファンから大歓声を受けた。その後に太ももの故障で離脱したが、7月に復帰すると安定感のあるピッチングでチームを支えて、8月24日のロッテ戦では抑えのラズナーが故障したため、9回表一死一塁という場面で緊急登板。井口をピッチャーゴロに打ち取ってジャンピングスローで二塁でアウトを獲ると、今江にはレフト前ヒットを打たれたが、角中をレフトフライに打ち取って3986日ぶりに日本球界でセーブを記録した。同年には優勝決定試合、プレーオフ、日本シリーズでも登板するなど楽天の日本一に貢献した。

横浜復帰
15年は二軍では好成績を残していたが一軍登板は3試合に留まり8月16日に現役引退を発表した。引退試合として行われた10月4日のソフトバンク戦で9回表から登板、細川を追い込むと涙をこらえきれず目頭を熱くしたまま投じた最後の1球で空振り三振に抑えて有終の美を飾った。引退後はヤクルトの投手コーチなどを経て22年から横浜のチーフ投手コーチに就任した。横浜からは以前から誘いを受けていたが、メジャーに挑戦する際の当時のフロントとの話し合いで「ダメだったら戻ってきていいですか」と聞いた際の「自由にしてくれていい」との返答を必要とされていないと感じた事が心に引っかかっており復帰を断っていたが、16年間の時間を経てその事を話せたことでわだかまりが解けての古巣復帰となった。

::
古巣復帰初年度は春季キャンプで夕食中に目まいがして真っすぐ歩けなかったため病院へ向かい、小脳の脳梗塞との診断を受けたため当初は休日をはさみながらのコーチングとなった。


チーム対戦記録
巨人 19勝17敗
阪神 18勝15敗
中日 19勝17敗
広島 13勝19敗
ヤクルト 18勝12敗
その他の記録
月間MVP 96年4月
1被安打敗戦 95年4月26日ヤ
カムバック賞 98年


初記録
初登板 92年4月7日広:先発投手で
初勝利 93年4月29日巨:完投勝利
初奪三振 92年4月7日広:野村から
初完投 93年4月29日巨
初セーブ 98年4日12日巨
記録達成日
1000投球回 99年8月21日ヤ:281人目
1000奪三振 01年6月26日ヤ:104人目
1500投球回 05年9月19日広島戦




92 93 94 95 96 98 99 00 01 02 03 04 05 13 14 15
最多奪三振 1回
オールスター 4回


  投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
92 大洋 6 0 0 0 2 0 16.0 18 2 10 0 21 2 0 16 15 8.44
93 横浜 29 2 0 8 10 0 149.0 127 15 61 6 125 7 0 66 63 3.81
94 横浜 28 7 3 9 12 0 181.0 175 5 69 8 169 2 0 70 63 3.13
95 横浜 26 2 0 8 9 0 162.0 166 13 45 6 132 1 0 79 71 3.94
96 横浜 28 11 2 10 10 0 196.2 157 31 63 11 206 4 1 80 72 3.29
98 横浜 34 1 0 13 5 1 143.2 131 9 23 2 101 2 0 49 47 2.94
99 横浜 26 5 2 14 3 0 184.2 178 32 31 6 125 1 1 83 81 3.95
00 横浜 19 1 1 6 10 0 115.2 123 17 36 3 97 1 0 74 71 5.52
01 横浜 50 0 0 7 1 27 64.2 51 6 14 0 60 0 0 12 12 1.67
02 横浜 39 0 0 1 2 20 47.2 37 5 15 4 46 0 0 17 13 2.45
03 横浜 17 1 0 6 7 0 103.1 103 16 22 9 72 1 0 59 48 4.18
04 横浜 16 0 0 2 5 0 44.1 64 12 13 2 37 1 1 41 38 7.71
05 横浜 21 0 0 3 4 0 106.0 111 12 29 7 93 2 0 50 45 3.82
13 楽天 30 0 0 3 0 4 26.2 25 1 10 1 25 2 0 7 7 2.36
14 楽天 31 0 0 1 1 3 31.1 27 2 15 2 21 2 0 9 9 2.59
15 楽天 3 0 0 0 0 0 2.1 5 1 1 0 1 0 0 2 2 7.71
球団 13年 339 30 8 87 80 48 1514.2 1441 175 431 64 1284 24 3 696 639 3.80
通算 16年 403 30 8 91 81 55 1575.0 1498 179 457 67 1331 28 3 714 657 3.75


  打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
92 大洋 7 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 1 .000
93 横浜 29 43 3 2 1 0 0 3 3 0 0 4 0 3 0 26 1 1 .047
94 横浜 28 63 2 13 2 0 0 15 4 0 0 0 0 4 0 32 1 0 .206
95 横浜 26 52 1 5 0 0 0 5 2 0 0 6 0 0 0 26 2 2 .096
96 横浜 30 63 5 3 1 0 0 4 3 0 0 9 1 4 0 41 1 2 .048
98 横浜 35 42 2 8 1 0 0 9 4 0 0 5 0 2 0 17 2 1 .190
99 横浜 29 70 8 9 4 0 0 13 6 0 0 4 0 4 0 44 0 1 .129
00 横浜 19 39 1 5 1 0 0 6 1 0 0 1 0 2 0 23 0 0 .128
01 横浜 50 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 .000
02 横浜 39 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
03 横浜 17 32 0 3 1 0 0 4 0 0 0 1 0 0 0 16 1 1 .094
04 横浜 16 12 0 2 0 0 0 2 0 0 0 2 0 0 0 7 0 0 .167
05 横浜 21 33 0 2 0 0 0 2 0 0 0 1 0 1 0 18 0 0 .061
13 楽天 30 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
14 楽天 31 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
15 楽天 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
球団 13年 346 455 22 52 11 0 0 63 23 0 0 33 1 20 0 253 8 10 .114
通算 16年 410 455 22 52 11 0 0 63 23 0 0 33 1 20 0 253 8 10 .114


  日本シリーズ投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
98 横浜 2 1 1 2 0 0 16.0 11 0 2 0 7 0 0 2 2 1.13
13 楽天 1 0 0 0 0 0 1.0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0.00
通算 2年 3 1 1 2 0 0 17.0 11 0 2 0 8 0 0 2 2 1.06


  日本シリーズ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
98 横浜 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 0 1 .000
13 楽天 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 2年 3 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 0 1 .000


  プレーオフ投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
13 楽天 1 0 0 1 0 0 0.2 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0.00
通算 1年 1 0 0 1 0 0 0.2 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0.00


  プレーオフ打撃成績
チーム 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 失策 打率
13 楽天 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 1年 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000


  オールスター投球成績
回数 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
通算 4回 4 0 0 2 0 0 7.0 6 0 2 0 9 0 0 1 1 1.29


  二軍投球成績
チーム 登板 完投 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四死 三振 失点 自責 防御率
92 大洋 4 0 2 0 0 19.0 11 0 5 26 3 3 1.42
97 横浜 5 0 0 0 0 7.0 5 0 2 3 1 1 1.29
00 湘南 2 0 0 1 0 7.0 9 0 3 6 6 6 7.71
02 湘南 2 0 0 0 0 3.0 2 0 1 6 1 1 3.00
03 湘南 2 0 0 0 0 4.0 4 0 0 6 0 0 0.00
04 湘南 8 0 0 2 0 15.0 16 2 4 21 9 7 4.20
05 湘南 5 0 2 1 0 22.2 13 0 6 16 3 3 1.19
13 楽天 5 0 0 0 0 5.0 2 0 1 6 1 1 1.80
14 楽天 2 0 0 0 1 2.0 1 0 1 2 0 0 0.00
15 楽天 11 0 0 1 0 10.2 8 0 4 13 4 3 2.53
通算 10年 46 0 4 5 1 95.1 71 2 27 105 28 25 2.36


  MLB投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
06 ドジャース 72 0 0 6 2 24 78.1 48 3 23 2 107 2 0 19 18 2.07
07 ドジャース 63 0 0 2 1 39 64.1 33 5 13 3 78 0 0 10 10 1.40
08 ドジャース 45 0 0 4 4 18 47.0 40 1 16 2 60 1 0 14 13 2.49
09 レッドソックス 56 0 0 3 3 2 55.2 50 6 25 5 52 1 0 16 15 2.43
10 ブレーブス 56 0 0 2 3 1 54.0 41 4 17 0 69 2 0 20 17 2.83
11 ブルワーズ 30 0 0 4 2 0 26.2 21 2 9 1 23 2 0 6 6 2.03
12 ダイヤモンドバックス 16 0 0 0 0 0 12.0 17 4 5 1 11 1 0 14 9 6.75
通算 7年 338 0 0 21 15 84 338.0 250 25 108 14 400 9 0 99 88 2.34


  MLBプレーオフ投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
06 ドジャース 2 0 0 0 0 0 2.2 0 0 0 0 4 0 0 0 0 0.00
08 ドジャース 1 0 0 0 0 0 0.0 3 0 0 0 0 0 0 2 2 -.--
09 レッドソックス 1 0 0 0 0 0 1.0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00
11 ブルワーズ 6 0 0 1 0 0 7.0 4 0 0 2 5 0 0 0 0 0.00
通算 4年 10 0 0 1 0 0 10.2 9 0 0 2 9 0 0 2 2 1.69


  MLBオールスター投球成績
チーム 登板 完投 完封 勝利 敗戦 S 回数 安打 本塁 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責 防御率
07 ドジャース 1 0 0 0 0 0 1.0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00
通算 1回 1 0 0 0 0 0 1.0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00