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| :投手転向: 秋田商高に入学したときは捕手だったが、2年の秋から投手を初めた。「新人戦でひとりしかいないピッチャーが、調子が悪くてがんがん打たれたんですよ。それで、監督がピッチャー交代を告げたわけですよ。誰が投げるんだろうと思っていたら、お前が投げろというわけです。それからですよ投手に転向したのは」。
 
 :橋戸賞:
 投手転向直後という事もあって高校時代は目立った成績は残せなかったが、日本石油に入社後に大きく飛躍、62年に都市対抗で43イニング連続無失点という大記録を作り、MVPに当たる橋戸賞を受賞。その年の秋にノンプロNO.1投手として大洋に入団した。
 
 :防御率2点台:
 入団後にコーチから5キロの重りがついた紐を手首につけて持ち上げるというトレーニングをやらされて肘を痛めてしまった。64年には防御率2.54、65年には防御率2.80と素晴らしい防御率を残したが、登板後には肘が腫れ上がるため連投ができず、4年目まで通算で7勝に留まっていた。
 
 :55号:
 64年9月6日の巨人戦。初回に鈴木 隆は王 貞治にシーズンタイ記録となる52号ホームランを打たれた。すると6回に峰 国安が右中間に53号を献上して新記録が達成された。結局王は巨人のシーズン最終戦となった9月23日に佐々木 吉郎からホームランを放って記録を55号まで伸ばした。
 
 :当て馬:
 66年5月1日広島戦のダブルヘッダー第一試合で二番手として登板予定だったが負け試合のため登板がないまま試合は終わった。今日はあがりだと思って食事を取っていた佐々木に別所ピッチングコーチが「1イニングでいいから第二試合の先発しろ」と言ってきた。先発予定の左腕小野を予想して広島が右打者を並べてくるだろうと読んだ三原監督が右腕の佐々木を先発させて、広島が左打者を代打に送ってきたら佐々木を小野に交代する予定だった。
 
 :完全試合:
 スライダーが切れて2回までパーフェクトに抑えた佐々木は当初の予定を超えて3回表の打席にも立ってレフト前ヒットを放ち先取点に繋げると、別所コーチから「ヒットを打たれるまでいって来い」とマウンドに送り出されて無安打無四球の快投を続けた。8回裏二死からは代打寺岡にヒット性の打球を運ばれたがセカンドの林健三が好捕して大記録をサポートすると、佐々木は9回裏も三者凡退に抑えて球団史上2人目の完全試合達成をした。これは前年は0勝だった佐々木にとって2年ぶりの白星になった。なお交代予定だった小野は初回からブルペンで投球練習を続けて150球を投げ込んでいた。
 
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 完全試合を達成した66年に8勝8敗、防御率3.04という好成績を残したが、その後も右肩など痛めるなど故障が重なって69年に引退した。
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